1
自分のからだにしがみついて離れないこのいきものは、一体なんなのだろうか?
寝台のうえで目が覚め、吐き気を催す嫌悪感を自覚した途端、焼けつく液体が食道を逆流した。
得体が知れない。理解しえない。きもちがわるい――。
胃液を吐き出してしまえば「母」と呼ばれるそれは体を離し、ぎょっと目を丸くした。そして驚いたことに、自分の心配をし始める。
芋を潰すように棍棒で叩かれ、枝を切り落とすように鉈を振り下ろされ、血と泥でひとのかたちが歪んでいくのを、黙って眺めていた。底の見えない井戸に投げ込まれた後、安堵と喜色の声を出したいきものが、今は気遣わしげに眉を曇らせている。
悪神の依り代は在ってはならないと、悪しき神の寵児をころせと、獣の形相で叫んでいたのはどこの誰だったか!
離せとうなるように吠えた。もがけばもがくほど、腕をつかむ力が強まる。らちが明かない。考えるよりもはやく星術でその手を切りつけた。
いっきに力を費やしてしまい、心臓がきゅうと萎み、目が回る。
頭をしたたかに打った感覚がした。倒れ込んだのだろう。立ち上がるひまも惜しい。伸びてくる手を払い、床を這って距離をとる。
「もう大丈夫、安心して」だの、「あなたは混乱してるのよ」だの、ぞっとするような言葉が鼓膜をふるわせる。
すべてわかっている。失われた。奪われた。おまえの、おまえたちの行いのせいで。
思惟からいっさいの平静を奪わんとする感情が理性を焼き焦がす。
籾殻を潰すように撲られるべきはおまえだった。麻布を裁つように切り裂かれるべきはおまえたちだった。激痛で気をくるわせ、喉が潰れるまで泣き叫ぶのは、おまえたちであればよかった。
体力が限界を迎えたのか、視界から光が失われていく。目の前が黒に覆われるにつれて、脳裏に惨劇の光景が広がっていく。
気を失うまえに己を取り囲んでいた、耳障りな喧噪が頭蓋の中で響いた。
『勘違いしている』
『騙されている』
『正しい行いなのだ』
違う。それは断固として違う。何もかも。
煮えるはらわたから音無き叫びが押し出される。
果たしてそれは言葉として吐き出せたのか定かではなかった。しかし少なくとも咆哮は、たましいに深く、深く刻み込まれた。
間違っているのはおまえたちだ。
現在の語彙をもって、秋の暮れを四つ遡り、記憶をなぞり直したあと、少年は目の前にひろがる空間をいま一度、紅の双眸で見渡した。
重たい雪の層の下に位置する、儀式の間と呼ばれていた地下の広間。床に転がった水晶の灯りに照らし出されるのは惨状そのもの。饐えた鉄のにおいと淀んだ赤が汚らしく飛散し、神聖な遺跡の面影はどこにもない。
そして数年越しにようやく、ひとのかたちを失ったものたち。
てっきり自分は、己が、彼らが惨たらしく絶命する事もまた、強く望んでいるものだと思っていた。ところが、肉塊へと成り果てる光景をこの目でしかと見届けても、胸は幾分もすくことがなかった。
逃げおおせた者がまだ残っているからか。いや、悔しさすら無い。
――真実を告げ、理解させ、彼らを絶望の淵に叩き落としてやりたい。
おまえたちは間違っていたのだと。為したことすべてが誤りだったのだと。
あばらの下でのたうつ、この怨憎の叫声こそ本望だ。
しかし彼らは何を言っても聞く耳など持たない。彼らの、死を予感した瞬間から絶命するその最期までの言動を目の当たりにし、改めて思い知った。
それならばせめて「間違っていた」客観的な証拠がほしい。
たとえ受け入れなかろうと、手に入れた事実の存在そのものが彼らへの復讐となる。
奴らに報復を。ゆえに必ず明かしてみせるのだ。
〝悪しき神〟とはなにものであるのかを。
「拭うのみでは足らぬな」
改めて少年の全身をざっと見た男は、眉ひとつ動かさず呟く。
少年は試しに自分の髪に指を通してみる。ものの見事に途中で絡まった。
「どっちみち部屋へ戻らなくちゃならない。そのときにでも洗う」
少年は生まれ育った村(ハイリヒザルク)を出る心算であったが、当然このまま出発できるわけではない。旅じたくをするため、村の中心地を挟んで反対側の屋敷へ、いったん戻らねばならなかった。
途中で誰かと鉢合わせした場合は少々厄介だが、その可能性も低い。死に損ない達の狂乱ぶりからして、儀式に参列しなかった者も含め、全員が村から逃げ出しているはずである。
防寒着と星魔石さえあれば、山下の別集落にはなんとか辿り着けるのだ。村に留まれば命は無いと考えるなら、道中脱落の危険があろうと、一時的な避難はすると思われた。
「ひとまず屋敷に行く」
それでいいかと問えば、男は「無論だ」と応える。
「さて、星の子。肉片と化した経緯を考えれば、これらが瘴気を発するまでそう短くはあるまい。この地は万物において性質や力が増幅し易い。既に腐敗が始まっている事からしても、間もなく死臭は骨まで侵す毒気と化し、長く残る」
「早く脱出しろってか」
少年は、広間の壁から天井までぎっしり刻まれた文様を一通り眺める。遺跡の他の空間や通路にも同様の資料があるのだと思われた。
そちらも見ておきたかったが、奥の部屋から地上へ戻る際には、この広間を通らねばならない。遺跡が失われるわけではないのだ、今は諦めるべきだと少年は自分に言い聞かせた。
「歩行に問題は」
「ない。けがもしてない。……屋敷への道順は外へ出たら説明する」
「承知した」
男は重たい外套のすそを翻し、出口へ向かって歩き出す。成人の腕一本分の距離を空けて少年も続く。
――妙な男だ。
少年は、足元を気にする様子もなく、血みどろの固形物を踏みつけながら広間を抜けていく男の後ろ姿を眺める。
かねてより、凍てつき閉ざされたこの山村を安全に脱出する手だて、その後の生計を立てる算段はついていた。いつまでも地下で座り込んでいる気はなかった。
ちょうど立ち上がろうとしたところへ、予期せぬ来訪者が現れたのだ。
真鍮色の髪。ひどく凪いだ眼差し。鼻筋はやや湾曲している。服装のせいで体格はわからないが少なくとも背は高い。
皮膚に目立った皺やたるみも無い一方で、やけに老成した雰囲気がにじみ出ている、ハイリヒザルクで見かけたことのない壮年の男性。
胡散らしい男だったが、それでも少年は、何があったのかと訊ねられて一度は素直に返事をした。
向けられている視線は胡乱でないにも関わらず、眼は表面に油膜のはった水晶玉を思わせるものだったからだ。
自分を見ているが見ていない。自分が何者であるかに興味はあっても、何者であろうと意に介さない。そんな確信めいた直感が少年の口を開かせた。
そうして幾らか言葉を交わしたのち、男は手助けを申し出てきた。
殺気を練った術で頬を切られても身じろぎひとつせず、善意ではなく、打算があっての援助だと男はこたえる。
少年には、見返りだと言うそれ――「『何物をも捨てた、意志だけを持つ星の子』を観ること」――が男の利益になるとは到底思えなかった。仮に男のいうそれに自分が該当するとして、一体何を得られるというのだ。
不可解な答えは、かえって少年を冷静にさせた。
下心があるならば何よりも警戒されることを恐れ、相手を納得させられるような、無難な説明をするだろう。
主たる動機はなんであれ、自分を観察することが対価になると男は本気でのたまっている。少年はもう少し話を聞いてみようという気になった。
どのように援助をするつもりなのかを問えば、知識を授けられると男は言った。
すなわち、彼には多識だという自負がある。現に〈星〉というなまえを知っている。
ひとびとが日常で、自らをそう称することはない。単語自体を知らないだろう。しかし男は、息をするように人間を〈星〉と称する。
もしや、世界の理に詳しい人間なのではないか。期待めいた感情が、少年の胸に顔をのぞかせた。
〝悪しき神〟にまつわる言い伝えの中身を、事実と仮構とに分けて解体し、神の存在がでたらめなのだと証明する。それにおいて世の摂理の客観的事実はきわめて役に立つ。
男から話を聞き出せれば、現在自分が有している情報の信憑性を確かめられるかもしれない。ついでに実用的な知恵も得られる。悪くないと思った。
――初めこそ、人間を〈星〉と呼ぶような者が、ふつうの子どもに詳細を話すわけがないだろうと、男との会話を終わらせようとした。
秘儀が行われることを知ったいきさつ、あえて人を〈星〉と呼ぶ理由。疑問は尽きなかったが、尋ねるだけ時間の無駄だろうと考えたのだ。
しかし自分に関わろうとするならば話は別で、少年は遠まわしに、何者であるのかを男に問うた。
質問の意図を正しく汲み取った男は、少年を見据えて淡々と名乗ったのであった。
己は〝傍観者〟である、と。
2
「星の子。《火》の残量は間に合うか」
大広間を抜け、壁掛けの灯りがまだ残っている廊下を歩いてしばらく。
前をゆく男、もとい傍観者が肩越しに訊ねてきた。
「星魔石無しでは些か軽装が過ぎるようだが」
少年の服装の防寒は、《火》の元素を蓄え、熱として放出させている鉱物――星魔石ありきのものだった。
本来であれば、地下においては少年の格好でも《火》の消費を無し、もしくは最低限に抑えられる。遺跡内の気温は外と違い、池が凍り始める初冬のそれであるからだ。
しかし少年はやむをえない事情により、外套の襟と深靴、それぞれに仕込んだ水晶から、上げた体温がそのまましばらく保たれるよう、熱を放出させていた。
無論、地上の厳冬の寒さは容赦がなく、星魔石を懐炉たらしめる元素をむやみに消費するのは賢明ではなかった。
装備も石の元素の残量も、屋敷まで安全に戻るには心許ないものであった。
ただ、民家が比較的集まっている区域へ辿り着くだけならばかろうじて間に合う。家屋に入り、蓄熱済みの星魔石を漁るなり、点けた炉から《火》を蓄え直すなりすればいい。
「お前が使う星術は《風》のみと見た。《火》を溜める手立ては無かろう」
まるで、蓄えたぶんが残り僅かであることを知っているかのような口振りだ。
それはそうと、傍観者が何を言おうとしているのかわからない。
少し考えて、無策だと思われている可能性に思い至った少年は、言葉を補足する。
「適当な家があるところまではもつ。そこで替えを探しでもする」
傍観者は歩みを止めてこちらを振り返った。ちょうど通路を抜け、地上へと繋がる長い階段の手前であった。
「予備を貸そう。我の分は足りているのでな」
袖無しの外套の下から取り出されたのは、扁平状に加工された透明の小石。星魔石である。
傍観者は平たい磨き石を手にのせた。無色透明の鉱物は全て、星魔石としての性質を有している。間もなく、大きな掌から小さく細い火柱が上がった。
その光景に少年は腹のなかで唸る。
傍観者は火、つまり《火》のみから成る現象を利用し、それを星魔石へ溜めた。星術を使い星魔石へ元素を込める行為は日常的にみられるが、驚かされたのはその術の内容である。
瞬間的に生み出してみせたそれは規模こそ小さいものの、複数の火を圧して束ねたような炎であり、《火》の密度の高さが異様だったのだ。
――彼は傍観者と名乗った。
ものを観、記録する。それ以上でも以下でもないと。
忘れただの思い出せないだのといった嘘を並べて、不都合をごまかす逃げみちを確保しておくような真似はしない。少なくとも村人らよりは誠実な人間だ。
誰に課されたものかはさておき、「傍観者」とは、役割の内容を端的にあらわした肩書きなのだと少年は解釈していた。遥か昔から物事を観察しているとの言も、詩的な比喩に過ぎないと。
果たしてこの認識は、もれなく正しいのだろうか。
「惜しまず使用して構わぬ」
またたく間に蓄熱された星魔石が差し出される。替えを探す時間が省ければ、傍観者にも利はあろう。少年は石を受け取った。
外套を羽織ったまま、襟の内側の衣嚢から水晶を取り出して、渡された石を代わりにしまい込む。ゆるやかに熱を放出するよう意思を以て命じれば、星魔石はほどよく発熱をする。
「そういえば、なんでもないように口にしてるが」
少年は、階段を上りはじめた傍観者のあとに続く。
「僕のことを星の子って呼ぶのはやめろ」
「今更だな」
傍観者の口調はあまりに淡々としており、ことばの意味を確定させる響きは聞き取れない。中身の無い応酬であるので、少年は傍観者の反応を無視して済ませる。
「たぶん外では訝しがられる」
少年自身、奇なる称呼でよばれるのは構わなかった。
さりとて、大抵の人々は「星」が何を指す言葉なのか知らぬまま、元素に対して限定的な命令をくだす力のことを、星辰と呼んでいる。
星辰による命令の実行結果や自然を利用して、元素を注ぎ込む。そして蓄えた素が具える作用を発動させられる、鉱物の名が星魔石。とりあえず「星」とは何か元素と関係のあるらしい、しかし意味の不明な音だというのが一般の感覚だ。
無論、たとえ「星」が意味の通ずる言葉であったとしても「人間の子」と呼びかけるのはあやしいのだが。
「星がなんなのか尋ねられても答えにくいし、面倒だ」
「ならば名前で呼べと」
「どんな関係にみられても、それなら大抵は自然なはずだ」
「だが我はお前の名を聞いておらぬ」
そこで初めて少年は、互いに名前を聞いていないことに気がついた。名を知るよりも先に手を結んだのだ。
「……カノン、だ」
無意識に視線を落とした。階段をあがる足音の合間に、少年――カノンはそれを零す。
「男児には珍しい名だな」
「変えるべきだと思うか?」
「精々風変わりだと揶揄される程度だろう」
「ようは説明を求められければいいんだ」
「では、そう呼ぶとしよう。カノン」
平鑿の刃のように凹凸も温度もない声が紡ぐ、無味のひびきは変わらぬままだった。音の種類が変わっただけだ。安心というと大げさだが、カノンは顔を顰めずに済んだ。
ふと、足元に落ちる影が色を深める。
視線をあげて確認すれば、進む方向の先に設置された、壁付籠の灯りが消えている。籠が抱える水晶に蓄えられていた灯光のもとが、底をついたのだ。
先をゆく傍観者が何かを取り出す。前方の闇が一瞬で姿を消した。体のかげになって直接確認はできないが、また別の星魔石に含ませた、光もとい《昼》を放出させているのだろう。
「大した量でなかった割には保ったものだ。どの燭にも良質な石が使われている」
「おまえ、星魔石に入ってる素の量がわかるとか言うんじゃないだろうな」
「流石に正確な数までは把握出来ぬ」
男の答えは、大体ならばわかると言っているようなものだった。
傍観者の特異な能力や独特の言い回しについては、ひとまず記憶の片すみに書きつけておこう。そうカノンが密かに思ったところで突如、傍観者の持つ灯りの光が一段と明るくなった気がした。
振り返ってうしろを見やると、後方の灯りも消えはじめていた。
冥暗がだんだんと奥へと伸びていく。漆黒の色はやがて広間に到達するのだろう。いや、すでに彼処の灯りは、無音の闇に呑まれているかもしれない。――まるで、人間の一部だった断片が打ちつけられる音や、恐怖と痛苦から溢れ出る叫喚で満たされていた時間など存在しなかったかのように。
しかし陽が頂きに昇る刻からもっとも遠い深更に、〝悪しき神〟を葬るためだという儀式は、たしかに行われたのだ。
床に横たえられた身体。動かぬ四肢。囲う大人達。振り上げられたのは杭のような鉄棒。果たして、最初にこだましたのは誰の叫びだっただろうか。
視界を覆う血飛沫と肉片。歯茎の割れた顎、腹から飛び出た臓物、足先から潰れる脚。
止まらなかった。ただそこに、そこに在るだけで耐え難き苦しみを受けてきた。止めなかった。与えられてきた倒懸の痛みの、ほんの一部を返して何をとがめられよう。
絶叫の隙間から漏れた言葉が耳に届いた。「悪しき神が本性をあらわした」。
本性など、馬鹿げている。そんなもの虚構だ。はじまりからして押しつけられたものだ。
脳髄が焼ける。喉奥からほとばしる。
うまく声にならず、もう一度。
叫ぶ、叫べ、〝悪しき神〟は――。
「カノン」
――頭上から振ってきた音が、追想の世界からカノンを引き戻した。
「……悪い。いま行く」
すっかり立ち止まってしまっていたようだ。カノンは素直に詫び、空いた距離を駆け上がって詰める。
観者の凪いだ目がこちらを見下ろす。
「言うまでもないが、迂闊な真似は時に命取りぞ」
「肝に銘じておく」
殊勝な態度で頷けば、傍観者はそれ以上なにも言わず、再び跫音を鳴らした。
足を止めた理由を尋ねてくることはなかった。
今度はしかと周囲に気を配りつつも、カノンは意識の隅で、傍観者の言葉を思い出す。
この男は、悪も神も〈星〉の生み出した幻に過ぎないと言ってみせた。
そうだ。あの広間に在ったのは、元あったものに面紗を被せてできあがった〝神〟なのだ。神に仕立てあげられた身代わりの山羊だ。
すべての始まりはどちらが引き起こしたものだったのかも忘れ、その場しのぎの許しさえ乞わずに逃げ惑い、生き延びたならば、あの所業こそ悪たる証左だとわめきたてるものども。彼らは、貌を隠した肖像のみならず、かたちが似ているだけのものも〝悪しき神〟だと信じて疑わない。
そもそも〝神〟とは人に作られた像に過ぎないのだ。そんなものが存在するならば、悪神と対なす善神とやらは自分を捨て置かず、一切の傷を負わぬ子供がここに居るはずがない。あるいは悪神のみが世界を見ているのだとしても、口をこじ開け、不幸を押し込んできたのは、まぎれもなく人間だ。
されど彼らは、こちらの確信を気の狂った妄想だと断ずる。外観の近しさを以て、本質の同じであることを叫ぶ。
それならば神を神たらしめる、光通さぬ覆いを剥ぎ取ってやるのみだ。
目に見えぬ信念に依らず、真の姿を晒し、無辜の影を結び付けるのは実に愚かな間違いであったと証明してみせる。誰にも否定できぬ否定を手に入れる。
正当性を信じたそれが誤りであったと理解したならば、彼らは罪と罰のいばらに裸で放り出される。理解しないならば、無知蒙昧の泥の中で一生醜く喘ぐこととなる。
真実を明らかにする事への恐れはない。ここに〝悪しき神〟などいなかった。誰に何を言われようと、揺るがない。辿らされてきた途を顧みれば明白なのだから。
「まだ陽差しは見えぬが、吹雪は止んでいる様だ」
背丈の高い傍観者からは、出口の向こうまで見えるらしい。
まもなく――白銀の地上へ出る。
慟哭がための涙が失われて久しい子の誓いを聞いたのは、小さな背を見つめる、物言わぬ惣闇だけだった。
3
右へ曲がる。百と三十七歩。少し下って斜め左。岩の間を通る。五十八。
ひとりで通ることがあった際に迷わぬよう、辿った道筋をひとつひとつ記憶に書き込んでいく。
カノンは傍観者の案内のもと、ハイリヒザルクを取り囲む山々の北にある洞穴を通り、山脈の反対側へ抜けようとしていた。
傍観者は杖の先に据えた六角柱の石から《昼》を放ち、灯りの代わりにして、重たい暗闇を裂いていく。カノンは麻小袋に入れた星魔石を光らせ、男のうしろを縫って歩いた。
岩壁のところどころに張った薄氷が時折、ぬらりと照る。
洞窟があることは知っていたが、まさか山の向こうまで通じているとは。へたに探索を試みなかったのは正解だった。腰を屈めたのも数えるだけ、肩も摺らず足元もさほど悪くないが、順路はかなり複雑だ。とにかく分かれ道が多い。
傍観者は迷うことなく突き進んでいった。
「ここは、山の《地》が噛み合わず生じた隙間だ」
屍喰らいの怪物でさえ寄りつかないという、ひっそり静まっていた洞窟に、足音と重なって傍観者の声が響く。
「罅が如く伸びた空間は、奇しくも〈星〉にとっての路の様なものであった」
「それにしては随分歩きやすいな」
「かつて、急激に気温が下がった結果として、岩の構成物の結合面が緩んだのだ。脆くなった表層はその後、何らかの影響でまれに寒気の和らいだ年に流れる、雪融け水を以て、削られていった」
「昔はいまほど寒くなかったのか?」
「眠らずこの地を凍てつかせる《水》の産物は、何も創世から在ったわけではない。当初は温暖な、〈星〉が生きてゆくのに最適な気候だった」
傍観者の話はにわかには信じ難かったが、道中で上流の川底を思わせる箇所が幾つかあったことをカノンは思い出した。
よそでは春や夏が、瞬きをするあいだに過ぎ去ってしまわないと聞く。先祖が冬のねぐらから出て行かなかったのは、気候がまた元に戻ると信じているうちに、移住し損ねたせいかもしれない。
「あの地下神殿が造られた頃は、四季の長さも等しきものであった。当時は長きに渡り、冬が居座る地でなかったのだ。……途中、昔日の名残が見られよう」
遺跡から地上へ出たのち、カノンは誰と遭遇することなく屋敷へと辿りついた。
支度を終えて直ちに発ちたいところだったが、外套を脱いだ瞬間に襲ってきた全身のけだるさは、足の裏を床に張り付けんとしていた。気が高ぶっていた影響なのか実感はなかったものの、冷静にかえりみれば睡眠も足りない状態であった。
村人が戻ってくるとは考えにくいこともあり、十分に休息をとってから、翌日の朝に出立する運びとなった。
カノンが長らく住んでいた屋敷は村一番の権力者の住居であり、食糧や貯蔵水の蓄え、暖房や湯を沸かす星魔石の備えは豊富だ。他から物を調達するような手間も生じない。傍観者はすっかり手持ち無沙汰となっていた。
退屈を苦に感じていたのかはさておき、存外口数の少なくない男は、カノンが食卓に旅装具をならべて状態の確認をしている最中など、向かいの席につき、いくつか話をした。
山下の村以外の、次に近い集落への道程たる洞窟を抜けるには、成人の足でおよそ半日かかる。外へ出てもそこで終わりではなく、最寄りの町まではしばし歩かねばならない。
傍観者は洞穴を利用してハイリヒザルクに入ったというが、さすがに日を跨がず強行突破したということはなく、中で一晩明かしたという。
野宿できる場所があるような環境ならば、自分にも抜けられそうだとカノンは思った。
村の子供と接触さえしなければ外出に制限はなかった。極力からだを動かすようにしてきたつもりだ。頼りない身体つきのわりに、体力はついているという自負があった。
洞窟の案内を頼んでみると、傍観者は「斯様な住処で暮らした子供が、露宿も厭わぬとは」と応えた。嫌味な響きが少しでもあったならば作業する手を止めていただろう。
「此処の住人が飢えを知るのは集落ごと滅ぶ時だと、誰に問うても口を揃えるに違いない」
「ふつうの家に住んでたことだってある。山の中で一晩過ごしたことだって何度かある」
「野営せねばならぬ風習が存在していたとでも」
「猟師をやってるやつに狩りを教えさせたとき、野宿をしてみたいって頼んだ」
村には、猟を生業とする男がいた。屋敷に出入りできるほどに信用されていた。
森での過ごしかた、獣の狩りかた、刃物の扱いかた。雑事を手伝いにきていた人間の観察や座学のみでは到底足りない部分を補うべく、カノンは彼から知識や技術を盗んだ。
「狩猟技術の習得こそ、男子の成人における条件であるのだろう。しかし親の目の届かぬ所で一夜を明かす事が、お前のような幼子にも許されたとは」
「妙に信頼されてて、そのうえ口のまわる奴だったからだろうな」
ハイリヒザルクの長の娘夫婦と親しい男であったから、長も夫婦も、カノンが行動を共にすることを咎めはしなかった。
カノンにも、いやカノンだからこそ命を狩るすべは身に着けさせるべきだと、自然の営みに関して見聞も深めるべきであろうと、それらしい意見を並べた男に、彼らはうまく言いくるめられていた。
傍観者は独りごとのように言う。
「孤立無援であったと踏んでいたが、認識は改めるべきか」
カノンは顔を上げ、斜向かいに腰かける男をじっと見つめた。刹那、両者のあいだに沈黙が横たわる。
「寝食に困ったことはない。監禁されてたわけでもない。利用できるものは近くにあったし、確かに僕は運がよかった」
猟師たる男は、ほかの住民と同じく虚ろを正義と信じつつも、それ以上に別の欲望を優先させる人間だった。カノンを村の外へ連れ出すのもやぶさかではないと妄言すら口にした。
中途半端に神をあがめていた男は、儀式にも参加していた。下腹部が赤黒く染まったのち、体を半回転させたかと思えば、すぐに他の血や肉と区別がつかなくなったが。
肉塊と化す前に顔を確認できた人間といえば、屋敷のあるじ達は、人だったものとして壁に張り付いていた。四方に散るその直前までは、目鼻のかたちが判別できた。――顔をみた覚えがない長の娘、つまりカノンの「母」にあたる女は、悪運強く生き延びたのだろうか。
終わりの見えない狭路を隙間なく支配する闇が、徐々に喉奥へと入り込んでくる。
いつの間にか息を詰めていることに気づき、ゆっくりと息を吸う。しばらくして、再び圧迫感を覚える。
そんなことを繰り返して何度目かの事だ。ふと、灯りの外を覆う黒色が薄くなった。錯覚かと思ったが、念のため目を凝らしてみる。勘違いではない。岩陰の向こうから、淡く光が漏れていた。
ちょうど曲がり角のようになっており、奥の様子は窺えない。出口に辿り着いたにしては早すぎる。仮に天井に穴があったとしても、雪に埋もれて外の光など入ってこない。思わずカノンは足を止めた。
「先刻話した『名残』ぞ」
傍観者は少年を待たなかった。カノンはすぐに彼の影を追う。
「百聞より一見の勝る光景だ」
かどを曲がったところで傍観者が急に立ち止まる。
その背に衝突しそうになるのを、寸前で歩を止めて回避する。カノンは男のかげから顔を出し、前を見た。
眼前には――まろい水光を湛えた湖が広がっていた。
地底湖と呼ばれるものだろうか。ひらけた空間に、深く大きな穴。満ちるのは一切の濁りなき青。周りの景色がみなもに映り込んでいなければ、波ひとつ立たない水がそこに在るとはすぐに気付けなかっただろう。穏やかなひかりは、恐らく底から溢れている。
まるで、明かりを灯した紺碧の硝子燈火だ。
「これのどこが、暖かかったころの名残なんだ?」
発した声がやけに響く。カノンは首を傾げる代わりに、眉間にしわを寄せる。
外に比べれば多少ましとはいえ、洞窟内も水が凍るほどに冷えている。ところが湖水の表層には氷が張っている様子がないばかりか、頬をさす空気の刺激が和らいだような気さえする。水温が高いことは察せられた。だが、気候が温暖だったらしいのは昔のことだ。おまけに湖が光っている原理に見当がつかない。
すべて傍観者に尋ねてもいいのだが、この男、どうやら迂遠な言い回しをするきらいがある。まずは直接確かめたほうが早そうだ。
「近くまで行っても大丈夫か」
「足を滑らせさえしなければ」
傍観者のからだを避け、カノンは湖のほとりに立った。足元に注意を払いながら、水溜りを覗き込む。
大人の身体を幾人重ねても足りない水深。
底は、幾つもの巨大な透明の鉱物で埋め尽くされていた。
天光を織り込んだ絹布をゆらめかせる石。その中には、麦の茎を裂いたが如き金色の、細い針の束が何本も埋め込まれているように見えた。
「金紅石を内包した水晶。これらは内包物を異物ではなく、己が一部と見做した星魔石ぞ」
背後から傍観者の声が近付いてきた。カノンは湖のふちから一、二歩後ろに下がる。
傍観者は隣に立ち、湖の底を見下ろしながら語った。
金針水晶の星魔石は、ひとが念ずるまでもなく、おのずと《昼》を蓄える性質を持つ。
透明度、輝き、いずれも比類なき湖底の星魔石は、《昼》の吸収率、蓄積容量ともに最上級の性能を誇っている。一般の星魔石と違い、休眠状態の元素でさえも余さず取り込む。
そして、いかなる経緯か何者かが下した「光を全て放出せよ」という命令が、今もなお効力を発揮し続けている――と。
星魔石は人間の意思によって元素を吸収する。またその意思によって、蓄えた元素が有している様々な性質・働きのうちの、一つだけを現象として放出する。それ以上の働きをしないのが通常だが、異なる物質を内包する場合は必ずしもその限りではない……そういった話はカノンも知っていた。
「出したそばから蓄えるから、命令の完遂にいたらない。やめろという命令の上書きもないから、結果的にいつまでも光ってるってことだな」
昼をあかりに満ちた時間帯たらしめる元素、《昼》は暗闇に存在しないように思えるが、正しくは休眠状態にあり、単純に視認できないだけである。金紅石入りの水晶が休眠状態の素でも蓄えられるというのならば、湖の光源としてじゅうぶん成立するだろう。
傍観者が口にした、かつての名残、という言葉の意味がはっきりしてきた。
「水が凍ってないのは、活動的なままの《昼》が、当初は今よりも多量にあった《火》の熱と結びついたままだから」
「常春の地であった頃は、洞窟内にも適度な量の《火》が満ちていたのだ。ところが災禍期に、夥しい数の《水》が雪崩れ込んだ。《火》は数に圧倒され、余所へと追いやられた」
傍観者はカノンの推測を否定せず、話を続けた。
「しかしその時点で既に、星魔石は蓄光と発光を繰り返していた。不眠の《昼》と結合していた《火》だけは、この場所に留まった。そうして、絶えず活動状態にある《昼》が満ちた空間のなかに、春暖の残滓として在り続けている」
カノンはなんとなしにもう一度、水底を覗きこんだ。日天の陽差しが届かぬ場所に、やわらに光りかがやく凍らぬ淡海。水中に沈むこがねいろ。
脳裏に――つかの間の夏の、忘れ草の鮮やかな黄色がゆらめく。
「変な場所だな」
カノンは強く目を瞑った。瞬きを数回。湖から視線を外し、適当に傍観者を見やる。
「そこは、『美しい場所だ』では」
男は一瞬なにか思い出すようなしぐさをした。
「おまえがそう思うなら、きれいな光景なんだろ」
「確かにこれは美観と判断されよう」
奥歯にものが挟まったような言い回しだ。「記録からすると、か?」と言えば、傍観者は首肯する。
「然り。我が観測し集積された情報から、『美しい』といった評価が導き出される」
「……訊いておいてなんだが、ずいぶん簡単に〝傍観者〟について喋ってくれるんだな」
「悪戯に吹聴されては少々面倒だが、お前はその様な真似をするまい」
傍観者は杖の、星魔石の光の放出を止めた。
「さて。今宵は終いぞ。此処で一夜明かす」
傍観者がわずかに顎でしゃくってみせた方向には、地面が比較的平らな岩陰。
気温も幾ばくかはあたたかく、灯りを消してもある程度手元がわかる。ここは野営地としてうってつけである。
今日はこれ以上歩かない。そう思った途端、急に脚の鈍痛が煩わしくなった。
「ちなみに僕たちはいま、どれくらい進んでる?」
「洞窟の七分、といった所だ。余程の悪天候に見舞われない限り、明日の夕暮れ前には町に辿り着こう」
すっかりカノンには時間の感覚が無くなっていたのだが、傍観者の発言からして、現在は氷輪が夜空に浮かんでいる時刻。目的地には、あと一日で到着する予定だということになる。
おおよそ想定していた通りの具合である。
傍観者の意向に従って支障はない。カノンは手元の星魔石の明かりを消し、返事の代わりとした。
4
まだ生え揃っていない奥歯で、野兎の燻製肉を噛みほぐす。
相変わらず食欲というものは輪郭がぼやけており、食事中は、栄養とともに多少の苦痛も摂取している心持ちである。
塩辛い乾物によりいっそう増した胃の重さをやり過ごそうと、カノンは他へ意識を向けた。
地べたに厚手の布を敷き、座り込んだカノンから少し離れたところで、じっとたたずむ傍観者。彼は杖の先端を湖に向け、星魔石に《昼》を補充している。
しばらく経ってもそれが未だに終わらないのは、音をたてずに水を注ぐが如く、ゆっくりと蓄えているからだろう。活動状態の《昼》を一気に奪おうものなら、元素の均衡が崩れ、洞窟を通過する際に便利なともしびが消えてしまう。
傍観者は光の元素を蓄えている間、なにも口にせずにいる。そういえば屋敷でも、食事をしている場面に一度も遭遇しなかった。
偶然か作為的なものか。飲み食いするところを見られたくない事情でもあるのか。
まさか、食物を摂る必要がないとはいうまい。脳裏に浮かんだ突拍子もない発想は、燻製のかけらとまとめて、星魔石で温めたぬるま湯で流し込んだ。
「確認だが」
一食分のそれとして、堅焼きのパンが残っていることに若干辟易したところで、傍観者が口を開いた。音を反射する壁に囲まれて、しずくの一滴すら垂れぬ場では、話し相手との距離は無いも同然のようだ。
「お前は〝悪しき神〟をどのように認識している」
「勘違いの産物。たちの悪い妄想の餌食になってる『何か』だ」
間髪いれずに、思っていたよりも低い声が出た。
村のものたちが一様に恐れていた〝悪しき神〟。
かつて人間のもとに姿を現した、災禍の時代を招いた原因。あらゆるわざわいの根源にして化身。屍を喰らう怪物たる喰鬼(しょくき)を意のままにし、時には自ら創りだし、人間に苦痛と死と絶望を齎したとされている。
「では其の、性質の悪い妄想とやらはどういった内容だ」
「『災禍期に顕れた、通常ならざる躯を持つ禍いそのもの』」
忌々しげにカノンは吐き捨てる。
悪神は、人型ではあるが特異な風貌をしているらしい。普通から逸脱した身体的特徴を有する者は、悪神の依り代であり、赤子であろうと速やかに縊るべきだとされる。
悪しき神に媒介される人間だと決めつけられてしまえば、本来ならば脅威たりえない幼児でも、迷信深い大人どもは容赦なく寄ってたかって嬲り殺さんとする。
「災禍期が在った事自体は疑わぬのだな」
「長く災害にみまわれた時期は確実にあったと考えてる」
「然り。温暖であったこの地の環境が激変したのも、甚大なる災いが原因だ」
傍観者は水面に翳していた杖を下ろした。
災禍期――時を刻む陽と月の巡りにしておよそ五百年前、人間が未曾有の変災に見舞われた時期である。生き延びた者達が次の世代へ伝えたと見做される言葉は、今日まで語り継がれている。
『禍殃は、前触れもなく訪れた。
熱さが酷暑を、冷たさが厳寒を以て大気を侵蝕する毒と化した。湿りが狂飆を、乾きが旱魃を産む機構と化した。陽と月の輝きは鈍り、昼と夜は等しく世界に満ちることを止めた。
北で大雪、南では灼熱の日差。東で洪水、西では渇水。飢饉が命を食い潰し、疫病が命を刈り取った。
弱き者や幸なき者の亡骸を積み上げながら、我々は天変と地異に耐え続けた。
或る日唐突に、ささやかではあれども、慈悲なき力の猛威が弱まった。
平穏の気配に我々は歓喜と安堵の声をあげた、しかし程なくして歓声は叫喚へと変わった。最たる凶事――人間の屍を喰らう異形、喰鬼が何処からともなく湧き出でたのだ。
千差万別の姿形をした群れは、殺せども殺せどもどこからともなく現れた。異形は喰らえども喰らえども飽くことを知らず、遭遇したが最後、死肉を欲するがゆえ息の根が止まるまで人間を蹂躙せんとした。
血と涙を流し、たましいに鞭を打ちながら、我々は喰鬼を屠り続けた。
天と地に秩序が戻るまで、死の怪物が失せるまで、それが終わるまで、我々は安寧を望み、祈り、唯ひたすら耐え続けた』――と。
〝悪しき神〟は、そんな極まった惨状の果てに顕現した。
世界から秩序を奪うだけでは飽き足らず、喰鬼を伴い残虐の限りを尽くした。そして人の認識の及ばぬ所へ姿を消すとともに、災禍期は終焉を迎えた。そう信じられている。
「とはいえ、災禍期については真としながら悪神を偽と断ずるのは、些か恣意が過ぎるなどと考えないのか」
「僕の確信を抜きにしたって、残ってる資料からも、そう仮定できる」
カノンは風味のある綿ひときれを湯に浸してから、いやいや齧りつく。
幾つかある伝承のうち、主として災禍期に言及している口碑は、叙事文としても遺されているし、他の所伝とも矛盾がない。
偶然に偶然が重なった時期であったのか、あまたの災害に共通する要因があったのか。いずれにせよ、大昔、史上類を見ない災害、世の様相を激変させるだけの大きな被害が確実にあったとみて良いだろう。
カノンはやや強引に、燻製とは違って逆に味気のないかたまりを飲み込んだ。
「でも、わざわいの権化みたいな喰鬼のことは記述としてあるのに、〝悪しき神〟のことに触れてる文は残されてない。明らかにおかしいだろ」
悪神についての言及は、存在している文書のどこにも見当たらない。その恐ろしさを語る言い伝えが、災禍期のそれとはまた別個に存在する。
「元を辿れば、災禍期における苦しみのあまり、〈星〉が一時的に生み出した妄想に過ぎぬとでも」
「僕はそう考えてる。あくまで当事者の望みであり、事実じゃない。だから文章としては残されなかった」
「成程。理屈は通る」
「天災の発生と〝悪しき神〟が出てきた時期もずれてる」
災禍期の、あまりにも理不尽で無慈悲な仕打ちにせめてもの理由を欲し、意思ある者の仕業とみなした――災厄を擬人的に表現したことばが、時が経ち、いつしか活喩ではなく、見聞したものの記述だと誤認されるようになったのではないか。そう、カノンは踏んでいた。
――だからこそ、自然の仕組みに造詣が深いと思しき傍観者の協力は、なるべく得ておきたいものである。早くも、悪の所業の一つとされる当地の厳寒に、何者かの意思が働いていないことが彼の口から語られ、有用性が示されたところだ。
傍観者の誠実さと知識の正しさを疑わない根拠は、〈星〉の異称を使う点と、かえって嘘を吐いているとは思えない名乗りをした点のみであるが……ひとまずは、欺瞞や誤った情報の可能性こそ残っていると、心に留めておけば十分だろう。
「其の情報も、資料とやらから得たものか。媒体は古書、それとも石碑か」
カノンは唾液を根こそぎ奪う物体の処理を再開しようとするが、傍観者は話を続けた。仮にもこちらは食事中なのだがお構いなしである。出口のわからない洞窟の中で面倒は起こしたくないので、カノンはおざなりにせず、真面目に応える。
「羊皮紙に書かれたものと、遺跡の壁に刻まれたものがある」
「神殿の壁に刻まれていた文様に目は通したか」
「あれは軽く見たところ、紙の束にまとめられたものと同じだった。たぶん、遺跡のを書き写したのが紙のやつだ」
「ほう」
「それを知ってどうする?」
最後は半ば独りごとのつもりでカノンは零した。しかし呟きすら、湖のほとりまで届くようだった。傍観者は傍までやってきた。
わずかに肩をこわばらせたカノンをよそに、男は斜向かいに腰を下ろす。
「記録した先に目的は無い。観測すべき価値も、憶えてしまえば意味を失う」
手を伸ばせば触れられそうな距離だ。
金紅石の輝きが、男の顔の片側に影を落としている。わすれ草の光彩をうつす眼窩の水晶は、哀愁や諦観の気配を全く感じさせない。
「本当になんでも答えてくれるんだな」
「似た台詞として聞くのは二度目だが、よほど我を疑っていた様だ」
「違う。おまえが傍観者だって名乗ったときから、村の大人達よりは信じてよさそうだと判断してた。で、それが今のところ間違ってないんだと、つくづく思ったんだ」
「寧ろ、忘却を知らぬと話せば、痴れ言だと断ずるのが〈星〉の常であろう」
「僕じゃなかったらそうだろうな」
カノンは首を横に振る。
「そうか。やはりお前は、観るべき〈星〉だ」
傍観者は言外に、これまで幾度となく相手にされなかったのだと仄めかした。
ひとは、ものを忘れない人間を簡単に認めず、妄言として片付けたがるものだ。
手に持ったままであったパンが、カノンの視界に入る。かみつき、力任せに小さくちぎり、口へと詰めた。
男が素性を尋ねられる都度、律義に偽りなく正体を明かしていたことは想像に難くない。
傍観する者というだけあって、彼は俗世間のしがらみに囚われず生きているのだろう。世俗とは観測対象の候補に過ぎず、あくまで己の身を置く場でないのであれば、〝傍観者〟がなんたるかを隠そうとしない態度にも納得がいく。
畏れず〈星〉の呼称を用いる男は、気候の変動や光る湖の仕組みも、真摯に詳細を語った。あるいはそう聞こえた。いっそのこと、儀式の存在を知った経緯や人間を〈星〉と呼ぶわけを、率直に尋ねてみるのもありだろうか。
洞窟を抜け、まちへ辿り着いたときの状況次第では、その選択肢も考慮しよう。
カノンは傍観者から視線を外し、あざやかな群青と水縹の入り交じる湖面を眺める。
――カノンが〈星〉という呼称を知っているのは、紙束と羊皮紙の綴本という二種の紙媒体のうちの後者、つまり遺跡の壁とは異なる内容の手記のおかげだ。
普段語られないような世界原理の知識は、いたずらに口外すべきものではないらしいといった認識を持つようになったのも、代々引き継がれてきた手記によるところが多い。
人を〈星〉と称し、元素の根源などについても言及しつつ、災禍期中のできごとを綴った旧記。
中身は詩的な言い回しと婉曲的なことばが多用されており、文章は読めても意味の難解な部分が多く存在する。終始、直栽な表現を避けようとしているのは明らかだった。駄目押しに、みだりに万人に読まれることを望まないとの一言まで、最後の頁にしたためられている。
代々ハイリヒザルクの長を務める家の人間に至っては、人が〈星〉の呼称を使うべきではないと頑なにそれを口にしなかった。
ゆえに、「それを知る彼ら全員にとって、世界の理は詳細を明らかにすべきではなく、話すべきでもない事」だと思い込んでいた。
「随分と険しい表情だ」
思索にふけりつつ黙々と顎を動かしていると、頬に視線を感じた。それをたどれば黄銅の瞳と目があう。カノンは「パンがまずい」と言い、行糧袋の口を閉じようとした。
「仕舞いか。あまりに小食では、成長期を迎えようとも華奢な体格は変わらぬ儘ぞ」
「声変わりでも始まったときには、もうすこし食べるようにする」
「今の齢は」
「もうすぐ十一になる」
「ならば既に、いつ兆候が現れておかしくない段階であろう」
「そんなに言うならお前も食べてみたらどうだ。なけなしの食欲もなくなる味だぞ」
話のなりゆきで小袋ごと差しだしてから、この男はものを食べないといったばからしい発想が浮かんでいたのをカノンは思い出す。
しかし傍観者は、あっさりと手を伸ばしてきた。
節くれだった指がパン一片をつまみあげ、口唇のすきまへ運ぶ。含んだものを噛み、黙々と咀嚼をする。
それは強烈に違和感のある絵面だった。
「……嚥下し難いのは否めぬ」
彼の喉が上下するさまをカノンはつい凝視してしまう。傍観者の何を知っているわけもないのに、一連のしぐさは、妙に似つかわしくないとさえ感じた。