1
『どうしてかまどは熱いの?』
『そんなの、火があついからだよ』
『じゃあお日さまも火なの?』
『わかんない』
幼子同士でつたないやりとりを交わす。
『それは、火と同じものがお日様にもあるからなんだよ』
『なにそれ』
『お父さん、むずかしいよ』
熱の正体である《火》や光明たる《昼》をはじめとする八つの元素が、時には結合し、時には単独で、世の中のあらゆる物質や現象を構成している。
そういった仕組みは大人であればみなが理解していた。この頃の自分はまだ、それを学びきれていなかった。
『じゃあ、お日さまでもシチューはつくれる? あったかいし』
『アシュリーはかしこいな。でも、太陽のひかりだけじゃ少し足りないかな』
幼女はがっくりと肩を落とす。
高台の草原を駆けまわり、疲れて休んでいる最中に、「外でもごはんを食べられたらいいね。きっと楽しいよ」などといった話をしていたのだ。
おとなの男は笑って、今日は鹿のお肉入りだよと慰めるように言う。
こどもの歓声がふたりぶん、家のなかに響いた。
なにもかもが、今しがたのことのようだ。
まぶたの裏側にその光景を見る。
あるときは小事をきっかけに想起して、あるときは夢として。
うつる画に綻びはなく、ひびく音に欠けもない。残ったものを隅々までなぞり、眺めるたびに思いをいだく。
意識が浮上するとともに、独りでに開かれ、めくられていた一冊の、最後の頁が終わる。
顔をあげれば、眼前に広がるのは奥まで続く書庫。
扱いあぐねる感情を無造作に挟み込み、今日もまた棚へと本を戻した。
屋根から雪が落ちた。意識が覚醒する。カノンは枕の下に忍ばせたナイフへ手をかけた。
視界に飛び込んできたのは、赤樹の壁と分厚い窓帷。にしまった布と布の隙間からは、光を反射する氷の粒のかたまりが垣間見える。
そう、ここは昨日、日没前に辿り着いた宿の一室だ。
「カノン」
背をむけた側から、抑揚に欠ける声が飛んでくる。体を起こして見やれば、傍観者は昨晩最後に見た姿勢と変わらず、椅子に腰かけていた。
「体調は」
「なんとも」
我ながら、相変わらず愛想のないもの言いだった。
傍観者は、かろうじて空いていた一人部屋の寝台をカノンに使わせた。寝床を譲ってもらった身としては殊勝な態度をとっておきたいものだが、無いものは出しようがない。
「おまえのほうこそ……」
座位では身体も凝るだろうに、窺えるかぎりで男の体調は万全そのもの。というよりも、寝起きの人間の顔ではない。しっかり結ばれた口角の位置、冷えた印象を与える眉の角度や、金を溶かした真鍮の開き加減も、最初に目にしたそれのままだ。
洞窟で一晩明かしたあとに見た顔も同様だった。おまけに背筋もきれいに伸びている。
「……寝なくても平気だとか言わないよな」
「妙なことを。我が身体とて休息を必要とする」
淡然と言葉を紡ぐだけして、傍観者は腰をあげた。
すこし腑に落ちないが、彼の言う通りである。変なことを訊いてしまった。
寝具に挟んでいた刃物を抜き取る。ふくらはぎに留めている鞘へと収めつつ、カノンは寝台からそっと降りた。
朝食を済ませ、カノンは傍観者とともにいったん宿をあとにした。外気が容赦なく染みるなか、向かう先はこの町の聖堂である。
神への祈りを捧ぐ場へ出向く理由はただ一つ。この町に馴染む信仰の中身を知るためだ。
村を出てからの行動の方針は、以前から考えていた。
〝悪しき神〟にまつわる口承を揃え集めつつ、あわせて、悪神以外のほかの神に対する態度も調査する。
地域によって内容に違いがみられるのか、あるいは共通項があるのか。そういった事柄を一つひとつ判明させていけば、〝悪しき神〟と見なされてしまった「それ」の正体にたどり着くか、あるいは「それ」を悪神たらしめている仮面を剥ぎ取れるだろう。
なお、傍観者は〈星〉の信仰に、さほど記録する価値を見出していなかったそうで、カノンの要求に見合うだけの詳細な情報は持ち合わせていないという。
必要な判断材料を多く集めるためにも、遠くの地まで足を運ばねばならないのだろう。気の遠くなるような話だが、構うものか。
さて、カノンは宵闇に包まれていない街並みを初めて目にしているわけだが、昇った日が差す往来は、まるで祭りの最中であるかのような雰囲気を醸して――。いや、どこも飾り立てられていないし、特別な装いをしている者も歩いていない。
首を傾げ、ほどなくして納得に至る。村と比べて人通りがかなり多いため、そのような印象を抱いてしまうのだ。
春の訪れは当分先だというのに、深い雪道を往くには頼りない軽装備が間々見受けられた。要するに町の外へ出ない住民たちである。いまの時期は冬野菜の収穫も終わり、畑に向かう農業者はほとんどいない。自宅の外で働く人間と、労働に従しない人間だけで、こうも道を賑やかにさせるのか。一年を通し、湿気を吸った綿にくるまれていた集落とは大違いだ。
隣を歩きながら、この町は栄えている部類に入るのかと訊ねてみる。
同行者には「見ての通り活気は十分だが、規模としては中の下であろうな」と返されてしまった。
「もしやとは思うが、あの地から一度も出ず、今日まで生きてきたのか」
「山を下りたのはせいぜい二、三回だ」
山脈を挟むだけでこれほどに違う。あるいはあの村にだけ、異様な空気が漂っていたのかもしれない。いずれにせよ、現段階ではカノンにその判断は下せなかった。生まれ育った郷以外の場所をまともに知らないのだ。町や都市と呼ばれる規模の集落に関する知識は、ひとの話でそのほとんどを補っている。
「世間を知らぬまま、独りで旅立たんとしていたとは。勇敢と蛮勇は紙一重と言うべきか」
「おまえみたいなやつを待ってるほうが、ずっと考えなしだろ。来るかもわからないのに」
受け答えをしながら、カノンは頬に冷気以外の刺激を感じた。
正確には、宿の主人や客と顔を合わせるたびに覚えていた不快感が、意識の外に追いやりきれない数になってきた。ひとが多い分だけ、量も増えている。
「ところで、如何に生計を立てる算段でいたのだ」
「喰鬼をたおして角を売る。森の奥にいるのを何度も殺したし、それなりに戦える」
道ゆく者の視線が自分に縫い留められていくのがわかる。すれ違いざまに、ざらついた感触が肋骨の内側を撫ぜていく。
「おまえこそ何をやって稼いでるんだ?」
「同じく喰鬼討伐だ」
「じゃあ、おまえがいやじゃなければ一緒に戦っていいか。そのぶん多く倒すから」
「我は構わぬが、全て任せて呉れても良いのだぞ。子一人分、増えても賄える」
「さすがに丸きり面倒みてもらう気はない」
発された声には機嫌の悪さがにじんでしまっていた。案の定、傍観者に指摘される。
「その様に苦り切った表情をするほど、厭か」
「……違うんだ。おまえにじゃない」
適当にあたりをつけた通行人の顔を見てやれば、慌てたように目を逸らされた。
「これがめずらしく見えるやつらにだ」
赤いのも、白いのもありふれているだろうに。
ぼやき、カノンは頬の横に垂れる髪を軽くつまむ。
純粋な奇異の目であれば存外気にならない。白色に意味を見出し、妙な解釈をして幻覚を見る輩の熱を孕むまなざしが、ただひたすら鬱陶しい。
雪のごとき白妙。色素のきわめて薄い肌と、あざやかな血の色が透けた紅い眼。
神聖だの奇跡だのといったせりふを散々聞くはめになった原因たるこの容姿は、村のそとでも物珍しく捉えられる。突きつけられた現実に、カノンはすこし落胆した。……同時に、余所では事情が変わるのではないかと、ほのかに期待をしていたらしい自分に呆れる。
「皮膚の白さも含め、色彩の組み合わせが稀なものだ」
傍観者は、カノンの顰めつらの原因を察したようだった。
「駄目押しにお前の貌は、眼光の鋭さを補って余るほどに端麗であり、身体の線は硬質且つ華奢だ。神聖を信じるには、余りにも適している」
語句だけを聞けばやたら褒めそやされているが、声音は、空気よりは温かいものの、日差しよりは冷たい。
村人と同様に、美しいと評価しても、傍観者自身はやはり何の感慨も覚えないのだろう。
カノンは出逢ったときから今までの男の態度を振り返り、ようやく気がつく。
この色が自然と受け入れられる状況を刹那、夢見たのは、まるで興味を示さない彼の態度に、きっと他もそうなのだと勘違いをしたからに違いない。
取りとめのない会話を交わしているうちに、聖堂に到着した。ところが辿りついた時には、礼拝はすでに始まっていた。情報元の宿の主人はどうやら多忙のために、開始時刻の変更を知らなかったらしい。
仕方なくカノンらは、祈りの集会が閉じられるのを待った。
信徒の見送りに外へ出てきた神官から、今度こそ正確な時間を聞き出す。次の礼拝は明後日だという。
「つかぬ事を伺いますが、旅の人で?」
上下一続きの衣(ローブ)に身を包んだ神官は、彼自身より一回りほど若い風貌の傍観者に、ていねいな物腰で話しかけた。
「如何にも。明日の礼拝に参加したく」
「そうでしたか。でしたら折角ですし、今からでも拝んでいかれてはどうでしょう。我らが神も歓迎してくださるに違いありません」
尋ねられた傍観者は、ちらりとこちらを見遣る。お前次第だと。
結局のところは明日もここに来るのだ。あえて居心地の悪い場所に長居する理由はない。神官に話を聞くにしても、祈祷文を聴き、疑問点を整理してからのほうが無駄なく効率的だ。堂内の造りや意匠の観察も、礼拝時に済ませてしまえる。
「ありがとうございます。でも、結構です」
カノンは微塵も感じていない感謝のことばを添え、丁寧に断った。
それと同時に、視界の端から真鍮に凝視される。かしこまった言葉遣いのせいだろうか。
屋敷の人間をはじめとする村人たちには終始、敬語を用いていた。傍観者に対する口のききかたこそ、むしろ数年ぶりのものであるのだが。
「遠慮なさらなくてもいいのですよ、お嬢さん」
神官と目が合う。わずかに頬が紅潮している。寒さのせいであってほしかったが、心なしか体が前のめりだった。
「でも、今日は身を清めてません」
あえて訂正する理由もないので神官の勘違いにはふれず、カノンは続ける。
「ちゃんとお祈りしたいんです」
「殊勝な心掛けですね。大丈夫、神は心の持ちようで判断してくださいます」
「もしかして本来は、外からきた人間は礼拝に参加してはいけないのでしょうか。むしろ今のほうが良い?」
「まさか。何者であろうとわたしたちは等しく信徒です。……さあ、立ち話もなんですから。外は寒いでしょう」
神の下僕はどうしても祈らせたいようだ。らちが明かない。
「僕ひとりでは決めかねます。どうしますか、ヨハン兄さん」
いいかげんにやりとり終わらせたかったカノンは、傍観者――と呼んではますます面倒になるのは明白であるし、二回りも歳の離れた人間をよび捨てにするのもまずいように思え、とっさに出た名前と呼称を以て――に話を振った。
子どもならばともかく、成人男性相手にはしつこく求めないだろうと踏んでのことだ。
自分ひとりで済ませられないのは不本意だが、やむを得ない。
傍観者に目配せをすれば、彼は浅くうなずいた。
「悪いがこの後、予定が入っているのだ。我らとて人間。祈りの最中に、時間を気に掛けてしまうやもしれぬ」
不誠実を強いてくれるな、と澄ました顔で傍観者はうそぶく。
「それはなんと、申し訳ないことをしました。お引き留めしてしまったようで」
一転、神官は拍子抜けするほどにあっさりと引き下がった。
はじめから用事があるからと適当に言っておけばよかったのか。いや、彼の食い気味だった語調の勢いからして、形容しがたい威圧感をまとう傍観者が信徒を装った効果も大きいのだろう。
見てくれで勝手な印象を抱かれるのならば、せめて傍観者のようであれば良いのにと思う。
「すみません言い出しづらくて。明日また、きます」
「はい、お待ちしておりますよ」
カノンが頭を下げれば、神官はにこりと笑みを浮かべる。
弓なりに細められた目は、カノンを通してどこか遠くを見ていた。
2
聖堂をあとにしたカノンは、無言で白い氷晶を踏み潰しながら、いったん宿へと戻った。
帰ってみると、ふたり用の部屋が空いたと主人に案内をされた。もう一泊する羽目になったところだったので丁度よかった。
二回り広くなった部屋へ荷を移し終え、苛立ちを吐き出すようにひと息つく。
カノンは腰を屈めて、かじかんだ指で紐の結び目をほどき、濡れて重たくなっている靴を片方脱いだ。足先に纏った布まで湿っている。冷えるとやっかいであるから、ひとまずはすべて抜きとっておく。
「お前は、偽りを口に出来ぬ質だと踏んでいた」
南面の窓際に立ち、いばらめいた窓霜の隙間からしばらく外を眺めていた傍観者が、ふと切り出した。
「地下で逢った際は、いっそ愚直でさえあったが」
「おまえには、いろいろと装う必要を感じなかった」
「と云うのは」
「僕のことなんてどうでも良さそうだっただろ。どんな口調で話そうが意に介さないなら、わざわざ好かない敬語を使わない」
仮に、自分が目の前で死に絶えそうになっていたとしても、傍観者は眉ひとつ動かさないように思えた。それにあの場で村人と同じ類いの、つまり慇懃な態度で接しておかねばならない人間が、不用心に話しかけてくるはずもない。
「挙げ句に『ヨハン』と」
「傍観者って呼ぶのはまずいだろ」
寝台に片膝をつき、左足の装備も同様に外すかたわらカノンは応えた。
「だが『兄さん』とは。一般に愉快、滑稽と称されよう。容姿にまるで共通性が無い」
「あのときはほかに思いつかなかったんだ」
左の諸々も脱ぎ捨てると同時に、寝台の上へあがる。夜具を尻の下に敷き、膝を抱えるようにして座った。ふれた素足はひんやりとしていたが、星魔石を使うほどではないので、ごわごわとした毛布で覆って済ませる。
「名の意味は」
「適当に言ったから、ない」
音の拍が「カノン」と少し似ているのは、ろくに考えず反射でひねりだしたからであるが、由来に値するほどでもない。
……ここで傍観者が名乗ればそれを用いるのだが、彼が口にする気配は一向になかった。真の名とやらに興味は無いが、この先、固有のなまえで呼びかけたくなるような場面は何度も訪れるだろう。
「なあ、これからおまえを『傍観者』以外で呼ぶときは、なんて呼べばいい?」
カノンは顔をあげ、男のほうを見た。
思いがけず視線がぶつかる。双眸のくすんだ金属が、僅かばかり磨かれた色彩を帯びて見えた。瞬間、カノンはなんとなしに鞘に収めた刃のありかを探ろうとしてしまい――警戒する場面ではないと思い直して――脚の表面をさらうように空気をつかんだ。
「先例無き問いだ」
いつの間にかこちらを向いていた傍観者は、組んでいた腕をやおら解く。
「我は先ず何者であるかを告げる。其れを知った〈星〉は、悉く、直ちに立ち去った」
「たしかに、言いかたはおおげさだな」
行き場を失った指をもてあまし、カノンは意味もなく踝を掻く。
「で、どうなんだ」
「『ヨハン』と呼んで良い。自然と出たのならば、お前の口に馴染む音であろう」
「ちゃんと反応してくれるんだったら、僕はなんだってかまわない」
「その点は案ずるな」
「おまえはそれでいいのか?」
構わぬと、傍観者改めヨハンはわずかに頷いた。彼は名を明かせない事情でも抱えているのだろうか。正体より重い呼称というのもおかしな話であるが。
「わかった。それじゃあ、改めてよろしくお願いします、ヨハンさん。……こんな感じか」
白々しさも甚だしく、字句だけは丁寧に、カノンはなめらかに述べた。
「なんぞ其れは」
神官の前ではつい兄と呼んだが、ヨハンとは、親子だと騙れそうな程度に年齢差がある。呼び捨てれば、関係性に無用な疑問を持たれてしまう。気は乗らないものの、面倒事を避けるためにはなんらかの敬称が付いていて然るべきだ。
「兄さん呼ばわりよりは、まだましだろ」
ヨハンと出会ったときはそれこそ必要性がなく、一切繕わないまま接してきたわけであるが、これから特に人前では、言葉遣いも含めて目下のものらしく装わなくてはならない。
「具体的にどんな関係なのかの設定も相談しておいたほうがいいよな」
「否。敬称も敬語も不要ぞ」
他人に説明できるよう、口裏を合わせておいて損はないと思ったカノンであったが、話はさらりと後回しにされてしまった。
「必要だろ。兄弟にも見えないのこどもが、大人を呼び捨てにしたりってのは変だ」
「お前の常識に照らし合わせた上での認識か」
部屋へ差し込む光を背にしたヨハンの顔は、憮然としているようにも見えたが――彼は頬を切りつけられても微動だにせず、疲労も一切にじませない、顔面の筋肉が固まっているような男である。錯覚だろう。
「一般的にはそうだってだけで、僕自身はどうでもいい」
「ならば、我とお前の関係を『その方針により、上下の関係を重視しない師弟である』とすれば、どうだ」
うやうやしい態度を頑なに拒む意図がつかめないでいると、ヨハンはカノンの返事を待たずに続けた。
「お前は恭謙の語を口にすると同時に、仮面を被るようだ。別人の様な貌である。我が観測する価値を見出した〈星〉は、遭逢時の面構えをした星の子ぞ」
寝耳に水だった。
それほどまでに気色の悪い顔をしていたかと、思わずカノンは己の片頬をさする。
言われてみれば、屋敷の人間をはじめとする村の人間たちと接する際は、敬語を用いつつ徹底して感情を押し殺していた。非力なくせして彼らの寝首を掻かんとする自身をなだめ、改心したと相手に勘違いさせて、監視の目を遠ざけるためだ。
怨憎を抑えるにはそれが最も効果的で、カノンに唯一とれる手段だった。
そして肝を嘗める日々を送った結果、畏まった態度を装うと、おのずから「聞きわけの良いこども」の顔をするようになっていたのかもしれない。
「おまえに利益を提供できないのは困る」
故意に猫を被っていたならば、いわく観る価値のない表情をやめたうえで、下輩然として振る舞うのだが、いかんせん面つきに関しては全くの無意識である。
「わかった、僕はお前の弟子。身寄りのないこどもを引き取って、一人でも戦えるようにと鍛えてくれてる。師匠の変な方針で、敬語とかは一切禁止」
これでいいかと片眉を上げてみせれば、ヨハンは頷いた。
観測する価値と秤にかければ、どことなく不本意ながらも、こじつけがましい設定を受けいれるほかなさそうであった。
「では本題だ」
ヨハンの視線が一瞬、ほんの少し下がって、また上に戻る。
「何故髪を切らぬ。そのように長く流していては、猶しも目立つ」
「そんなもの」
言いかけて、カノンは口を噤む。
「嘗ての事情はともあれ、今や誰に咎められようとも従う事情などあるまい」
「ああ、そうだ。でも」
カノンは歯切れ悪く答えた。刃を宛がうという発想が、己のなかに見当たらなかったのだ。
「……ちっとも考えてなかった」
白髪をどうにかしたいのは紛れもない本心であり、髪を伸ばしていたのも、短くしようものなら騒ぎに発展するため、致し方なくであった――そのはずである――が、何故だろう。どこか気が進まない。
漠然と、切りたくないと感じる思いが、澱として底に沈んでいる。
「失念にしては、度が過ぎる気がしないでもないが」
「なんせ、ずっと長いままだったから」
とはいえ利点を考えれば、曖昧な躊躇など無視するに限る。あえてそうしない理由もまた思い浮かばなかった。
カノンはさっそく短く切ってしまおうと心に決める。しかし、そこでヨハンは「であればいっそ、染めてしまうと良い」と、斬新な提案をしてきた。
「此処より南の或る地域では、祭事に合わせ選ばれた者が、染料を用いて髪を染める習慣がある」
「髪を? 布染めなら知ってるが」
「使用に適した染料は幾つか共通している。いずれにせよ、用いる染料は比較的地域を問わず入手可能だ。髪が伸びる度に染め直さねばならぬが、そういった手もある」
「逆にいえば、一度染めたら落ちないってわけだ」
試しに、赤毛の己のすがたを想像してみる。
毛髪だけでも色を変えてしまえば、纏わりつく感触は格段に減り、神秘など連想されなくなるだろう。長さを変えるよりも各段に効果が見込め、髪に刃を入れるのは気乗りしない問題も解決する。
カノンの丸まっていた背は自然と伸びた。
「それは今日中にでもできるようなことか? なにか特別な準備だとか」
「材料を除けば、髪を洗い流せる環境は必要だ」
「だったら湯あみ場を使わせてもらえば済むな」
「しかし明日、再度あの信仰者に会うのだろう。無用な会話を強いられるに違いない」
信仰者、つまり神官のことだ。ヨハンの言うように、白髪を染めたことを嘆かれる可能性は十二分にある。説教すらされそうだ。
「どうせこれきりだ」
熱に浮かされた信者の顔を思い出し、カノンは短く息を吐いた。
予想されるのは面倒かつ避けたい状況であるが、他方で、勝手に失望して腑抜けた面を晒せばいいとも思う。
「承知した」
悪態代わりのしぐさでヨハンは納得したらしい。
「我は此れから、行旅の用品補充がため、買出しに行く。染料はその途次に購入できよう」
「僕も行く」
ヨハンは窓際から離れ、衣装掛けから黝い外套を取る。
彼が退いてまどの全貌があらわになると、硝子に凍てつく露は羽毛のようでもあった。
薄い氷の幕から視線を外し、カノンは足に被せていた毛布を剥いだ。爪先にふれてみれば、幾分かは温まっていた。
3
からの浴槽を静閑が満たしている。
カノンは温浴室に持ち込んだ手鏡でときおり状態を確認しながら、ヨハンから教わったとおりに染料を伸ばしていた。
掃除を対価に申し出れば宿の主人は快く温浴室の使用を許可してくれた。おかげで時間に追われることなく、紫がかった赤色の粉末をきちんと湯に溶き、櫛で髪を分けながら余すところなく白を塗りつぶしていく。
カノンが戯れごとに付き合わされ続けるはめになった原因のひとつが、見るも無残なありさまへと化す。かつて自分が産まれる直前に、村の長は夢でとある啓示を受けたと吹聴したらしい。
その寝言に信憑性を与えてしまった純白をいまさら変えようと、失ったものは戻らない。しかしそれはそれとして、微塵も胸がすかないといえば嘘になる。
根本から毛先まですべて馴染ませたところでちょうど溶液を使い切った。髪の芯に色が浸透するまでは、しばらく時間を置く必要があるという。誰も見ていないのをいいことに、カノンは手桶を床へ裏返しに置き、そのうえに腰を下ろした。
あいにくと己の顔を見つめる趣味は持ち合わせていない。とりあえず手鏡を脇に置くが、そうしたところで、天井近くにある窓から外を眺められるわけでもない。カノンは早くも暇を持てあまし、無意味に石壁の小さな隆起を目でたどった。
石材の表面をなぞって、何周した頃だろうか。
ふと気が付けば眼前に、乾燥花が飾られた丸太の壁が広がっていた。
――いや違う。カノンは瞬時に理解する。これは脳裏に映っているもの。いつものことだ。
今回は、意識を集中させれば、木材ではなく石材の質感や色合いを意識できる深度だ。途中で止めることもできる。
だが、本の一節を読むようにひとつの出来事を追い終えれば、記憶の再生は自然と終わる。そのうえ今は手持ち無沙汰である。カノンは抗わず、眺めることにした。
やわらかい手つきで扱われる櫛が、髪を梳かし終える。
『おにいちゃんだけ、ずるい』
女は困ったように少し眉を下げつつ、「アシュリーにもやってあげるから、もう少し待っててね」と微笑みかけた。
数日に一回は軟膏のようなものを全体に馴染ませている甲斐あって、こどもたちの髪は常に指通りよく艶やかだ。
夏は日当たりのよい窓際、それ以外の季節は炉のそばに置いた椅子に、女はこどもを座らせては鼻歌まじりに髪をいじっていた。手間だったにちがいないが、それ以上にひとの髪を手入れをしてやるのが好きなのだろう。
『おかあさん』
呼びかけに女は首を傾げて応える。
『僕、かみを挟むきれいなやつ着けたい』
『じゃあ今度お父さんに作ってもらおっか』
『いろは青いのがいい』
『青かあ。このあいだ見せてもらった石みたいな?』
『あのね、お空のいろみたいなの』
空色など紅い眼には似合わないだろう。けれども女はにこやかに頷いた。
結局、髪留めはつけずじまいだった。
高い吹き抜けの天井、表面をなめらかに削いだ石の壁。人々のささめき。
カノンは細くしなやかな淡紅色の髪をなびかせ、聖堂内へと足を踏み入れる。
中央の列はまだ席が空いており、ふたりはそのうちの窓側の端に陣取った。前方の長椅子はすっかり埋まっているものの、運よく人の背や頭部のあいだから祭壇を見通せる位置だ。
礼拝者は、行儀よくおとなしく座るこどもから、年齢のわりに背筋の伸びた老人まで、年齢性別問わず勢揃いである。
「ほんとうにすんなり入れたな」
「信心の有無以上の区別は不要。信仰者の言通り、そういった方針なのだろう」
互いですら聞きとれるかどうかといった声量でことばを交える。カノンは意匠を観察して時間を潰しながら、ヨハンとともに祈祷が始まるのを待った。
――二日前、カノンが髪を洗い流してみると、あらわれたのは落ち着いた赤紫ではなく、ひときわ鮮やかな犬薔薇の花弁から抽出したような、ともすれば可憐な印象すら持たれる色合いだった。
白髪はむしろ染まりやすいはずだったが、想像とはあまりに甚だしくかけ離れた仕上がりである。
購入した店で粗悪品を掴まされた様子もなく、これには傍観者たるヨハンも、カノンの髪質の問題だというつきなみの仮説しか立てられなかった。
とはいえ無垢だの神聖だのといったものから縁遠い彩であることには変わりない。瞳のいろとの取り合わせを考慮して選んだ赤色であったが、ひとまずはこのままでいいだろう。
そうしてカノンは赤かぶの酢漬けを思いだすような頭のまま、再び聖堂へ赴いたのだった。
俗に伝承と呼ばれる詩や物語は、カノンが知る限りで、大まかに五つほどあった。
一つめ、書き手不明の手記。〈星〉という人間の異称、元素を司りし柱の詳細、主観的で個人的な視点から見た災禍期の様子などを、遠回しな表現と比喩を過剰にちりばめながら綴る。
二つめ、災禍期の惨状を後の世に伝えるもの。年に数回、村人を集めた場でそれは読み上げられていた。遺跡の壁に刻まれていたのもこれである。
三つめ、世の自然法則を説明するもの。元素の働き、星術や星魔石の仕組みに等について、何者かが教授するためにこしらえた文章であるような印象を受ける。
手記は古い羊皮紙を用いた本にまとめられていて、ほか二編は内容を書き連ねた紙が屋敷に保管されていた。これらの内容に〝神〟は登場しない。
四つめ、世界と生命を創造した主たる神の偉業を知らしめ、大いなる存在を讃え、〈星〉に秩序を守らせるもの。人々は元素の源たる柱の存在をこれによって知る。
そして五つめ。〝悪しき神〟の恐ろしさを語るもの。邪神の性質、容貌、そのほか諸要素に触れつつ、災禍期中の残酷非道極まる行いを描いている。
神と称される何かが登場する二種の文は、口碑のみで存在する。善なる神は畏敬ゆえ、悪なる神は忌避ゆえ形に残してはならぬものだといわれ、口づたえに代々伝えられてきた。
古き言葉が伝えんとする神の在りようを人々に広く理解させ、次代へと確実に引き継がせる役目は、礼拝で用いる、口伝をもとにした祈祷文がそれを果たしている。
「彼方に御座す神へ魂を以て伏拝し、誦すべし」
神官が祭壇の前に立つ。「言い伝え」を成す所伝をもとに編み出された、祈りの言葉が構内に響きわたった。参列者はそれを追う。カノンはもちろん暗誦できてしまうのだが、声帯は震わせず、口の動きだけで唱えるふりをした。
「『我等、主たる神に祈らん。安寧、豊饒、六つの清閑の為に。諸事の禍難、万端の苦楚、其の滅絶の為に』」
平素の礼拝はあまり時間を費やさずに行う。祈祷文を奉唱し日々の信仰をたしかめる事が目的とされている。
「『崇めらるる吾神よ、我らに恩寵を与え給え。讃えらるる吾神よ、我らを凶事から守り給え』」
「『世界たる御身を創造せし、偉大なる我等の神よ。汝は総ての器を生み、六つの柱の命を施し給えり。蒼き柱は重き地を、朱き柱は――』」
あらゆる現象を、あらゆる物を、それとしてたらしめる構成要素――元素の根源にして、司る機構が六柱(むつばしら)である。
続く内容を聞く限りこの町では、主たる神が六柱を創造したことになっている。そればかりか、六柱が明確に神格化されているようだ。
カノンが村で聞かされた文言においては『汝は総ての器を生み、万物の素の運びを六柱に任せたり』であった。六柱は主たる神の忠実なしもべあるが、その手によって生み出されたとは表現されていなかった。ハイリヒザルクの民は、六柱をあくまで自然的に発生したと解釈していた。
「『開闢の父にして母よ、主宰の御許に集う超越者らよ。膏雨を降らせし神よ、甚雨を降らす事勿れ。光明を用い時刻む神よ、春の息吹と冬の寝息の巡りを乱す事勿れ。生命を賜う神よ、災を以て亡ぼす事勿れ』」
六柱の起源の解釈にこそ違いはあれども、〝神〟への願いはみな同様らしい。「あなたは偉大なる存在なので、我々に平和をもたらしてください」と。
空の箱に願掛けをする心情は共感しがたいが、精神のやすらぎを得られるとすれば、考えようによってはむしろ安いものである。許しがたいのは信仰を他者に強いる真似や、生身の人間を偶像に見立てる習慣、それらを良しとする醜悪なものどもだ。
カノンは祈祷文の内容に集中して胃のむかつきに無視を決め込む。傍からみれば、さながら将来有望な敬虔なる信徒のたまごであろう。
「『我等生々世々に、信を示し魂魄を献じ、衷心を捧ぐ。大いなる慈しみと恵みを、我等に与え給え。神よ、汝の栄光を拝する我等を佑け護り給え』」
章の前半は善神と六柱への讃美と祈願。
「『我等、片時も忘れぬ。嘗て惨憺たる災禍の時代が――』」
後半は災禍期の惨状と、悪神が如何なる邪悪であったかを振り返り、主神から再び賜った現在の平穏に感謝する。
ハイリヒザルクにおける〝悪しき神〟は、怪物を生み、人間を喰らわせ殺戮を行ったものである。
人前から喰鬼とともに姿を消した時期と、災禍の終息とが一致している事と相まって、存るだけで災いを招くもの・人々を不幸たらしめる災厄の化身とされている。
混同してしまいそうになるがあくまで村人のあいだでは、数々の自然災害、喰鬼、〝悪しき神〟はそれぞれ同一視されていなかった。
であるからこそ、この町で善神の対が天災や怪物そのものであるかのように謳われていれば、しめたものだ。災害や異形らとの区別には実際これといった理由はなく、単純に悪神が苦難を人間にたとえた表現を由来としている可能性が高まる。
「『――我等は耐えた。異形が退き、黒雲が晴れ、光芒が地へと降り立つ刻まで』」
いったい〝悪しき神〟の所業がどのように描写されているのか。カノンはじっと次の句を待つ。
神官はひときわ勿体ぶった口調で言い放った。「『我等は祈った。捧ぐに相応しき、真なる無垢の信心を以て。斯くして、大いなる吾神は御手を差し伸べられた』」と。
知らない一節だった。
面を食らったカノンを置き去りにしたまま、災いの終息についてが述べられていく。
カノンが知っている祈祷は――最後まで信心を持ちつづけた人々の深い信仰が善なる神に届いた結果、悪神の退却そして災禍期の終焉を迎えるにかなった旨をうたう。神を厚く信ずることの重要性を改めて確認する。そのためにまず災禍期終盤に顕れた〝悪しき神〟についてを語り、それから、主神が応えて慈悲を与えたという話に入るはずだった。
「『――恒久の秩序調和と康寧を祈りて、玻璃結晶の如き血を以て一切の穢れを濯ぐ。此処に我等が身と魂を汝に委ねん』」
神官は悪神に一切ふれぬまま、結びのことばを言い終えてしまった。ついには口語で適当な挨拶を挟んだのち、近ごろ喰鬼の目撃される数が増えていると、注意を促しはじめる。
カノンは下唇を噛んだ。これは予想していなかった。
時間の都合による省略か。だとしても顕現したとの一言すら省くものだろうか。明確に、害意を以て〈星〉を滅ぼさんとしたのだ。善なる神を引き立てる悪役としてこれ以上の適任はいまい。
無駄だろうとは思いつつも、念のためヨハンの表情を横目に伺う。鋼の造形からは、やはりなんの情報も得られなかった。
4
冗長な話がようやく終わり、礼拝者が退出を始める。
カノンは人影がまばらになるまで待った。もういい頃合いだろうと判断するや否や、席を立ち、足早に祭壇のもとまで歩いていく。
神官はちょうど、鈍色の杯に乗せられた星魔石へ手をかざし、いかにもな雰囲気を演出していた灯火を消したところだった。こちらの姿を認めた途端に彼はぎょっと目を丸くしたが、カノンは構わず直截に尋ねた。
「今日の祈祷は、どうして〝悪しき神〟のことを省略したんですか」
見開かれていたまなこが、怪訝そうに幅をせばめる。
「我等は旅の者だ。して、我が弟子は『祈りのことば』に興味を抱いている。故郷で口にしていたものと異なるらしい」
カノンより少ない歩数で隣に並んだヨハンが、ことばに補足をして説明――真っ赤な嘘である――をする。カノンは自分の問いがあまりに唐突だったと気づき、出かかっていた言葉を呑み込む。
そういうことでしたかと、神官は合点がいったようだった。
「言葉まわしが少し違うのかもしれませんね。喰鬼のおそろしさを述べるところで、『絶望の胎、空虚の骸より出でし、屍を喰らう異形』とあったでしょう」
カノンは頷いた。その一文は村で唱えられていたものと一言一句たがわなかった。
「はら。むくろ。喰鬼を生み出しているそれが、悪しき神ですよ」
「だとしても――いえ、でも、言及が少なくありませんか。怪物をあやつり、人間を傷つけたことを言ってない」
「悪しき神はすべての喰鬼の根源(おや)。存在を以て、人々に耐えがたい苦痛や死を齎したおそろしい悪ですが、異形を操ったわけではありません」
喰鬼への言及はすなわち悪しき神への言及でもありますよ、と。神官は子を諭すがごとく穏やかに、カノンが初めて聞くような伝承を根拠に説明をした。
神への讃美もとい祈祷文に、悪神口承がほとんど参照されていない理由に察しがついた。
瞭然たる悪行を為した喰鬼と比べて、話の盛り上がりに欠けるのみならず、内容も重複する。祈りのことばを組み立てた当時の人間にも、神に願う人間にも、殊に取りあげる必要性は低いと判断されているのだ。
「……的外れなことを訊いてしまいました」
山を越えてみればさっそく、災禍期から現在まで語り継がれる伝承の内容に相違があった。〝悪しき神〟の扱いが異なっていた。
「ところでお嬢さん、その髪の色はどうされたのです」
「気分で変えました。それより、知りたいことがまだあるんです」
ここでの〝悪しき神〟は喰鬼の祖、いうなれば元素に対する六柱のような位置づけだ。邪神は屍喰らいの親玉でありながら、それを扇動したわけではないと明確に設定されている。意思を持ち、人間を害したのは喰鬼のみだという。
不自然なようにも思えるが、喰鬼が人々に、災禍に対して〝悪しき神〟という原因を求めさせたのだとすれば、辻褄が合う。
まず先に、人間の屍肉を欲する存在と被害があった。そして災禍期当時の人々は、正体不明の化け物の脅威にいだく不安を、気休め程度にでも和らげようとした。
そうして生じた空想上の存在が、喰鬼をうみだす機構。またの名を悪しき〝神〟。
仮説が正しいとすれば、ハイリヒザルクに残っていた悪神口承は、そこから更に話が膨れてゆき、やがて出来あがった創作物だ。
「伝承を記した書物があるかと思います。それを読ませていただけませんか」
「書物は保管庫からの持ち出しが許されるのが、祝祭の時に限られていまして」
「なら、神官さまが僕たちに、神さまや悪神の口承を語るのは?」
「我らが神々の偉業は何回でも讃えましょう。ですが……悪しき神については、軽率に述べるのは憚られます。邪をおびき寄せてしまうともしれません」
悪神を指すことばは軽々しく口にできても、伝承を空読みするとなると途端にわけが違うらしい。音になんらかの力が宿るはずもないが、どちらも差異ないように思える。
カノンは、神官の後方をひそかに窺った。
奥には扉がある。書物が保管されているのはあの向こうだろう。災禍期と自然法則の内容を綴った文書は、晩に忍び込んで読むなどすればいい。
しかし何よりも知りたい神の口伝は、正確性を求めるならばなおさら、神官から聴くほかない。いや――違う、全文を語らずとも、相違点さえ指摘してくれればいいのだ。
この神の従者は、こどもの誤りを逐一指摘してくれる、物好きで親切な人間だ。
「でしたら、僕が語ればいいですね」
カノンは掴みかかる勢いで神官との距離を詰めた。顔をあげて下から見据える。頬にかかっていた淡紅の髪が横に流れた。
「いいえそういう問題では」
「『一陣の疾風が屍喰らいの灰を浚った。そこには、瘴気を吸い、腐り沈んだ赤の途を渡るものが……』」
言葉を遮り、カノンは、記憶の本に刻まれた悪神の伝承をとなえた。
神官は一瞬あっけにとられたのち、やめさせようと、語気を強めてカノンを諫める。
無視してカノンは続けた。読めば読むほど声が低くなっていく。表情が険しくなっていくのが自分でもわかる。さながら地べたを舐めている心地だ。そして、ぐつぐつと沸きあがる怒りに無理やり蓋を被せながら、最後の節まで一文も漏らさずに言い切った。
神官は少し青ざめた顔で、批難するようにヨハンを見た。
「なんてことを……あなたもどうして止めないのです」
黙ってやりとりを聞いていた男は、そうする必要は無かったと言わんばかりに沈黙を貫く。この師匠にして弟子ありと観念したのか、神官はため息ともとれる呻きをもらした。
「いまのを聞いて、どこが違ったでしょうか」
「そもそも、それはどこで覚えてきたのです?」
山の反対がわでとカノンは短く返す。自分の質問に早く答えろと、混じりけのない血の赤で食い入るように見つめた。
神官は瞬間、開きかけた口を中途半端なところで止め、さっと閉じた。奇妙なしぐさだった。心情が読めずに反応をうかがっていると、男はしばし緘黙したのち、やや舌をもつれさせながら答えた。
「大きく異なるのは、さきほども言ったように、悪しき神の行い。それから、容姿のことでしょうか」
「容姿?」
「悪しき神は『万難の影を持つ』。つまり、きまった姿はしていません」
鉄の塊で頭を殴られたような衝撃だった。
「人型ですらない、のですか」
神官の言葉がやけに遠くに聞こえる。
「ひとと似たかたちに姿を変えた、というような描写は無いはずです」
カノンは祭壇に彫られた意匠をいま一度確認しようと、さまよわせるように、神官から視線を外す。
消えているはずの星魔石の灯りの向こうに、暗闇を裂く火のかげがちらついた。
「〝悪しき神〟は、通常ならざる躯を持っている」。ハイリヒザルクの人間たちは伝承を信じ、該当する姿貌の子どもとそれを庇う大人を、容赦なく嬲り殺そうとした。しかし神官は、悪神は定まったすがたを持っていないという。ならば、禍の化身と同じかたちをした災厄の寵児などといった概念も生じ得ない。
依り代の烙印などというこじつけは、あの山村のうちでしか機能しない呪いであったとでもいうのか。他の地へ移っていれば、たったそれだけで、あのような目に合わずに済んだとでもいうのか。
「だったら、もし」
身体が熱い。されども吐息は氷のように冷えている。発したこえは、微かに震えていた。
「もし僕が、両のかたちの違うからだを持っていたとしても――」
硝子の割れて散る音が、続く言葉をかき消した。
カノンはとっさに、振り向きざまに腰から諸刃の短剣を抜く。
――窓際に、凍てつく外気を翼に纏った一羽の鷲が降り立っていた。
その躯体はカノンの身丈を優に越し、大人と並ぶ。身を矢じりのように窄めて、窓を突き破ったのだ。にぶく光を反射する鉛色の嘴は、人の肉を内臓ごと啄めるだろう。風切羽は研いだばかりの鋏のようだ。初めて目にする異形であった。ただし、額から生えた一本の角が、その正体を示している。
喰鬼だ。
神官の叫びを合図に人食い鷲が宙へ舞い上がる。迷わずカノンは床を蹴った。
天井の高い聖堂で上空に留まられでもしたら厄介だ。一歩、二歩。カノンは跳び、急所めがけてダガーを投げつけた。無防備に晒された喉元。刃はみごと羽毛の上から肉に突き刺さる。
喰鬼はぐるりと回転しながら、体を床板へ叩きつける。追撃でもう一本。
ギャアとひとつ鳴き、巨大な怪鳥は呆気なく事切れた。
「悪くはない動きだ」
背後からすっかり聞き慣れた足音が近づいてくる。
「初動も素早い。状況判断は怠らなかったか」
「わざわざ体を張って窓をやぶるような喰鬼だ。羽を飛ばすとか、なにかを吐き出すとかはしないと踏んだ」
「ふむ。及第点だろう」
「……わざわざ建物のなかにまで入ってくるなんて、珍しいよな」
カノンは硝子片の刺さる死骸をながめた。
町の中心部に現れることは稀だ。喰鬼は森や洞窟に棲みついているが、人里へ降りてきた場合、効率的な狩り場へ行くまでこらえきれずに人間を襲い始めるからである。
「東の大陸ならいざ知らず、此方側の市街地で喰鬼に遭遇する事はめったに無い」
そうこう話をしているうちに、喰鬼の体がぐしゃりと溶けた。
肉がくずれてから得物を抜けば、傷口から飛び散る血液を浴びてしまう心配もない。カノンは柄の端をつまみ、骨と赤黒い泥の山からダガーを回収する。
手袋越しとはいえども一応は汚れに触れないよう気を払いながら、刃を外套のすそでぬぐって鞘へおさめた。
「手拭きの布は」
持っていなかったのかと、暗にヨハンが咎める。
喰鬼の肉片や体液、角を除いたあらゆるものが、人間にとっては毒であった。死に至ることこそ無いものの、齎される症状にひと晩以上苦しむはめになる。
一定の時間じかに触れ続ければ、焼けるような痛みや刺すような痺れ。一定の量を体内に入れれば、殴られるような頭痛や捻られるような腹痛。
亡骸は時間の経過とともに自壊、やがて塵と化し霧散するのが、せめてもの救いだろう。
「宿に置きっぱなしだ。こんなところで使うとは思ってもみなかった」
「……だから言ったでしょう。悪しき神の伝承を、唱えたばかりに」
神官が嘆いた。折しも、にわかに外が騒然としはじめる。
「おまけに純白の御髪まで染めて、主神の加護もなくしてしまった」
「ばか言うな」
振り返りこそしなかったが、カノンはたまらず敬語をかなぐり捨てて噛みついた。
「なにかを起こす力なんてない。口承にも、髪にも」
「明らかに異常な状況だ。偶然にしてはできすぎています」
「理由があると信じるのは勝手だ。でも、ひとを巻き込むな」
カノンは努めて、短くけずった文句で返事をした。――物心ついたときから染めていたならば〝悪しき神〟を褒めるなり貶すなりしていたならば、もっと早く、たやすく村ごとほろぼせたとでも言うのか、とは口に出さなかった。
臓物のジャムが目の前にあるおかげで、いまは反駁よりも、喰鬼が現れた理由に意識を割くべきだと、かろうじて冷静に考えることができた。
聖堂の戸がやや乱暴にひらかれ、複数の人間が駆け込んでくる。まだ付近にいた礼拝者たちだろう。
神官の身を案じる声を聞き流しつつ、カノンは顎に手をやった。
屍を食らう怪物が舞い降りたいきさつ。気まぐれを起こして町の中心までやってきたといったような、偶然のひとことに収まるのであれば、単に運が悪かったという話で済む。
なにかしらの原因がある場合は、それを根本から叩く必要性が出てくる。町を発つ前に再び出没されては面倒だ。路銀に換えられる角はいくらあっても困らないが、不意打ちの戦闘は避けたい。
「こいつがあらわれた原因はなんだと思う?」
カノンは隣の傍観者に意見を求める。すると彼は、耳を疑うようなことを口にする。
「我やもしれぬ」
――文脈からして、その言葉の意味は明白だった。しかしあまりにも解せない。
カノンは眉を顰めて、男の頭のてっぺんからつまの先まで視線を移し、意識的に嗅覚まで働かせてみた。
鼻を打つのは、蜜に浸けた肉を焦がしたような、しかばねの匂いだけだ。喰鬼が嗅ぎつけるほどの出血をしているとは到底考えられなかった。
「極上の食事かそれを妨げる腐肉か。どちらかは知る由も無いが、我が血の匂いは屍喰らいの鼻孔を突く。智を持たざる喰鬼であれば、我に牙を剥かんとする衝動に全て支配される」
ヨハンはなんでもないといったふうに話す。
「ようするに……喰鬼をおびき寄せる体質だって言いたいのか?」
「普段は、遭遇した折には必ず気を引くという程度だ。此度は彼の地の、特性を顕著にさせる作用が効いたのだろう。道すがら発現しなかったのは幸いであった。我とて、光届かぬ隘路での戦闘は御免被る」
どん、と重量があるなにかの乗った音が天井越しに聞こえた。屋根からの落雪、そして立て続けに鈍い振動が複数回ひびく。
戸惑いながらもカノンは認めた。彼の血は本当に、喰鬼に例外的な行動をとらせるのだ。
しかしどういった原理で、何が喰鬼に効いているのだろう。死人のからだで歩きまわり、口を利いているわけでもあるまいし――と呟いた瞬間だった。カノンの意識は、思考の海に足を引きずられる。
例えば、言葉を発し、ものを食べるのであれば、相手が生者であると疑わぬように。あまりに当然が過ぎて、意識すらしていない前提が間違っていたとしたら。
長らくカノンのなかに蓄積していた違和感が、記憶を巻き込み、溢れ出す。
彼は、お伽噺のような永い時間、観測を続けていると大げさに表現した。星魔石に宿る元素の量を把握していた。その身に流れるのは異質ともいうべき――。まさか。縁のぼやけていた疑問が、突如として明確な形を成してしまう。
その役割を問うのではなく、もっと根本的な。傍観者とはなにものなのか。
神へ祈りをささぐ場所の天に、穴が開く。
「カノン」
――思議の溢水を強引にせき止め、カノンは得物を構えた。星辰の力を以て、周囲を満たす空気を構成している《風》へ、己の意思を伝わらせる。神経をとがらせ、殺気を練った。
「お前のもう少し実力を把握しておきたい。あと一、二体討ってみせろ。我の身を守る必要は無い」
カノンはぞんざいに返事をした。純然たる《風》を集めて圧し、刃のかたちに研ぐ。
仕掛ける時機を見極め、その瞬間、頭上に向かって矢のごとく鋭く放った。
風の音がうなる。刹那の目眩は奥歯を噛んでやり過ごす。天井を突き破ってきた頭部が落石めいておちた。まずは一体。
血を迸らせながら首が床へ転がった。悲鳴、泣き声、老若男女の叫び声がこだまする。
瞬時に見やれば、建物内にまだ残っていた信徒たちが神官とともに一カ所に身を寄せ縮こまっていた。カノンよりも幼い、兄妹とおぼしき子供も含まれている。
侵入のたやすい出入り口の近くに留まるのはいかがなものかと思うが、へたに護身の心得のある人間はひとりもいないようだ。戦闘の邪魔にはならないだろう。
カノンは視線を正面に戻す。
喰鬼が新たに三羽、すでに割れている窓から侵入してきた。脇目も振らず揃いも揃ってこちらに、厳密にはヨハンへと飛びかかる。カノンは喰鬼に向かって走り、一体にダガーを投げ込みつつ、かぎ爪が鼻先を掠めるかというところでその体躯の下へ滑り込んだ。
靴先が硝子の破片を蹴り飛ばす。喰鬼が空振った分と合わせて距離を稼ぎ、完全に背面へと回り込む。胸元で即座に風鎌をふたつ練り、それぞれに目がけて投げつける。
無防備な怪鳥の頸がそれぞれ掻き切られる。血が飛び散り、カノンの頬を濡らす。
若干よろめきながらもカノンはすぐさま体を起こした。対照的に二つの巨躯は力を失って倒れる。
もう残りの一羽は短剣を刺したまま軽くひと羽ばたきし、矛先を変えてカノンに襲いかからんとするひと鳴きした途端、床へ突っ伏した。星魔石の杖でヨハンが喰鬼の後頭部を殴打したのだ。こぶし二つ分ほどの大きさをした六角柱のかどにはうっすらと血糊が付着していた。
カノンは浅く息を吐いた。
これで最後だったか。しかし屋根に乗った音の数からして――。いましがたの出来事を思いだし、物音の数をかぞえる。足りない。
残りの一羽の居場所は甲高い悲鳴とともにすぐに割れた。
いつの間にか――抑えはしたが、それでもやはり星術の使用で急激に体力を消耗し、疲労で視野が狭まっていたらしい――開け放たれていた扉から侵入した喰鬼が、怯え震えていた信者たちの輪から、兄妹のかたわれを、くちばしで片足を銜えて引きずりだしたのだ。
屍喰らいの怪鳥に足を挟まれ、仕留めた獣を運ぶように体を引っ張られていく少女は、恐慌状態に陥り、わめき叫ぶ。
一瞬、食料をとらえながらこちらを伺った鷲と、たしかに目が合った。カノンは悟る。この喰鬼はヨハンに釣られこそしたが、彼を襲おうとするよりも、無力なこどもをつまみ食いしたほうが利があると判断している。
相応の知力があるのならば即座に攻撃を仕掛けるのは得策ではない。カノンはその場を動かず、静かに残りのダガーを鞘から抜いた。
信徒達は誰一人として少女を助けだそうとはせず、ぶつぶつと一心になにかを唱えている。少女の兄だけは、震えながらも身を乗り出し、しかし恐怖と戦っている最中のようだった。
喰鬼はすこし開けたところまで少女を運び、くるると喉の奥で鳴いた。走らねばすぐには詰められない程度の距離がカノンとの間にあった。
ひびのように血がつたう脚を解放するや否や、喰鬼は小さい背中に鉤爪を食い込ませる。
床に縫い付けられた少女は、痛みにいっそう激しく泣きだす。
まともに状況を判断できているはずもなく、もはや本能だろう。幼い少女は兄に向かって、かろうじて自由の利く手を伸ばした。
「やだ、やだ! お兄ちゃん!」
『――おにいちゃん!』
ことばが、二重に響いた。
心の臓を止める冷たい手が耳朶に触れ、下へさがり、カノンの首をゆるく締めあげる。
過去をつづった本を読んでいる場合ではないというのに――雪崩のごとき勢いで回想が始まっている。カノンは舌打ちをした。目の前の時が止まったかのような感覚さえ覚える。
大人たちに取り囲まれ、蹴られて殴られて、叫んでいる。
いや、違う。そうだ。泣いているのは見知らぬ少女で、呼ばれているのはあの少年だ。
返り血か汗か、一滴が首筋をつたう。
『たすけて、やだ、なんで、やめて』
血のあとを引きずっているのは地べたではなく、木の床板だ。対峙しているのは人間ではなく喰鬼だ。
〝悪しき神〟の依り代とされた子の姿はない。双眸の色彩の違う子はどこにもいないのだ。
喰鬼がえものの息の根を止め、喰らわんとする瞬間に仕掛けるのが最も安全だ。あと少し。あとすこし。カノンは武器を握り直した。
『いたいよう、やめて、やだ、ああ!』
伸ばした手が空を掻く。
助けようとした。やめさせようとした。星術で風を猛らせて奴らの皮膚を切り裂いた。だが力が足りなかった。
止められなかった。たすけられなかった。
ああ、何度も、何度も同じあやまちを繰り返してなるものか!
――足を踏み込む。
カノンは渾身の力で小刀を投げとばした。――胴に刃が深く突き刺さる。
喰鬼の体が硬直する。少女のうなじに穴を開ける寸前で動きが止まり、そして弾かれるように身をよじったかと思えば痛みにのたうちはじめた。
ダガーを抜こうとしてか喰鬼が翼をはためかせる。足が浮く。爪が少女の背から抜けた。
それを目視しつつカノンは駆け出した。瞬時に《風》を圧縮する。
敵対者の接近に、喰鬼は刺を抜くのを諦めて高く舞い上がった。上空で体勢を立て直し、嘴を突き出しながら、カノンめがけて頭から一直線に飛んでくる。
カノンが手元に風鎌を発現させたのと、息苦しさが気管を締めたのとはほぼ同時だった。揺れる視界にはあえて抗わず、むしろ意図して身を任せる。そして途中でひるがえして切っ先を避けると間髪入れずに、片翼の付け根から胴まで一気に風鎌で抉りあげた。
赤がほとばしる。血液が入らぬようカノンは咄嗟に目をつぶった。
怪鳥の嘴が虚を貫く。体勢を崩した巨体は反対側に倒れるかと思われた。
しかし瞼を開いて目に入ってきたのは、辛うじて踏ん張った喰鬼が、怒り狂った形相で、刃が如き風切羽の生やした翼を振りかざしている光景であり――瞬きより短い刹那、宙に生成された水のはしらが、横から喰鬼の頭部を殴った。
怪物の首は、根元からあらぬ方向へと折れ曲がる。
最後の喰鬼は今度こそ白目を剥いて、倒れ、ぴくりともしなくなった。
カノンはきゃしゃな肩を大きく上下させた。喰鬼の反撃を受け止めるために刃を作りかけていた《風》への命令を解く。ヨハンが何か呟いたのが自身の荒い呼吸音の合間に聞こえた。
「だれか、そいつの手当をしてやれ。だいぶ血が出てる」
カノンは気を失っている少女を顎でしゃくり、ぶっきらぼうに言い放った。
彼女の傷は決して深くはないはずだ。恐怖と痛みが限界に達し、失神してしまったのだろう。
弾かれるようにして少女のそばへと駆けよる子を尻目に、神官が「喰鬼はもう残っていないのでしょうか」と言う。
ヨハンがそれを肯定すれば、信徒らは安堵の声をもらした。
幼い兄が、妹の名前を何度も呼んでいる。カノンはその場から離れるように、ふらつく足で壁際まで歩いた。なんとなく息苦しさが増したような気がしたのだ。
本格的に休憩をとるつもりはなかったので、長椅子には座らず、石壁に背中を預けてもたれかかる。
気配を感じて顔をあげれば、金色と目が合う。
「薄らに察していた以上に星術の使い方がなっていないな。体力の消費が余りに過ぎる」
開口一番ぶつけられたのは容赦のない指摘。しかしそれはカノン自身悩まされ続けている弱点だった。戦闘後こうして会話を交わせる程度にはなったものの、克服にはほど遠い。
「尤も、お前の年齢を考慮すればこれからの訓練で如何とでもなる。最たる問題は激情に駆られやすいと思しき気質だ」
「……善処する」
カノンは素直にうなずいた。少女と喰鬼のあいだに割入ったのは明らかに冷静さを欠いた行動だった。無用な怪我を負い、復讐半ばで脱落するなど断じてあってはないし、絶対に避けねばならないことである。
髪をつかむように頭をかけば、思いのほか浴びていたらしい返り血で指が滑った。
「ではその心掛けに期待し、前もって告げよう。無暗に暴れられても困るのでな」
「なにを言うつもりなんだ」
「我は今から、お前を抱きかかえて宿へ戻る」
カノンは眉間にしわが寄ったのが自分でもよくわかった。鏡を見ずともわかる。苦い顔をしている。
「僕が後先を考えない行動をするのを、そこまでして抑えたいのか? ずいぶんと親切だ」
「我が抱える程度で足りるものか。とはいえ、心なしか足取りがおぼつかぬ様子。帰途の最中に倒れられては面倒だ」
ヨハンは杖を片手で持ち、カノンの了承を待たずに足元に膝をついた。
「たおれたりなんかしない」
「益々白い顔をしてよく言う」
壁を背にしていたのが仇となり、後ろに下がって逃れられない。かといって殴ったり蹴り飛ばしたりする行為はさすがに憚られた。喰鬼との戦闘が無傷で済んだのも、ヨハンが最後に星術を使用したおかげである。
それに、今さら妙な真似はしないはずだと思ってしまう程度には、この男を信用している。
仮に万が一のことがあっても、密着するようなものなのだから、彼の星術が発動するより先んじて喉元を掻ける。もしもに備えるとすれば、本調子でない今はむしろそちらのほうが好都合だろうか。
「抱えるんじゃなくて、おぶってくれるんだったら、まだいい」
「では、我の首に手を回せ」
自ら提案したはいいものの勝手がわからず、カノンは言われるがままに、その背中へ抱き着いておぶさった。ヨハンはカノンの脚を抱えて、危なげなく立ち上がる。
「人の集まってくる前に疾く去ろうぞ」
ヨハンの肩越しに、意識を取り戻した少女のすがたが見えた。
妹は、痛い痛いと呻き、兄はな必死にそれをなだめている。励ましていると表現したほうが適切かもしれない。縋るきょうだいの小さな手を、しっかりと握り返していた。
5
空には寒雲がまだらに広がっている。
陽はちょうど陰に隠れてしまっていた。ヨハンに背負われ、感じる温度が余計に沁みる。
すこしばかり瞼が重い。ひとの体温は眠気を誘うものだったかと、カノンは当惑する。自分は思っている以上に調子が悪いのかもしれなかった。戦闘の後半で使用したダガーの回収もすっかり忘れていた。
「あの時」
人気のない裏道には傍観者の声と、彼の雪を踏む音がひびく。
遠くの喧騒は一帯を染める白銀に吸収され、路地はひっそりと静まっている。
「少女が殺されんとする直前、お前が飛び出したのは意外であった。当初はあの〈星〉を餌にしようとすらしていた筈だ。幼子が犠牲となるのは、流石に忍び無かったか」
「ちがう。そんなんじゃない。あの瞬間、むかしのことを思い出した。『助けられないのはこれで何度目だ』と思ったら、からだが動いてた」
「あたかもその過去とやらを幾度となく繰り返している様な物言いだ」
些かも興味はないといった口調だ。そのはずである。けれども一方で、心なしか話を促されているようにも聞こえた。
あえて説明しなかったそれは隠し立てすることでもない。傍観者にとってはつまらない話だと判断していた。聞くだけ時間の無駄だとわかればヨハンも止めさせるだろうと、カノンは少し考えてから口を開く。
「僕は、いちど見たもの、聞いたもの、感じたものをずっと覚えてる」
「我と同じく、忘却を知らぬと?」
「おまえと同じだって言っていいのかはわからない。でも『忘れる』って現象は知識でしか知らない。『忘れない』から」
かつては物事ひとつを思い出すのにも苦労した。膨大な量の記憶が無造作に放り出されていたからだ。とくに時間が経過したものや、日頃から想起するものでもない過去のできごとは、どのあたりから探って辿ればいいのか、逐一たしかめなければならなかった。
「記憶は本だ。天井まである本棚を並べた部屋を、頭のなかにつくった」
本を読み起こせば、見たものの光景も脳裏に映し出される。情報を言葉に、言葉を文章にして、それを記した本をしまう場所さえ把握しておけば良い。そうやって記憶を整理した。
空間の想像は難しくなかった。手本となるものがあったおかげだろう。
家には、三段ほどのささやかな本棚が置かれていた。例の書き手不明の手記も含め、家主が先代から引き継いだものと、山の麓で手に入れたものが並んでいた。
「ただ、整理したおかげで……いや、だからこそ自覚した。悪化もした。似たような体験、連想させる出来事があると、ときどき僕の意思にかまわず、昔の記憶が勝手に思い出されるようになった」
書庫を作ったことは後悔していない。それがなければ、日常生活を送るにあたって今以上に苦労をしただろう。
「なんでもないことから、そうでもないことまで。大抵はどうってことないが、脳裏に浮かぶの止められないときもある。意識をもっていかれる」
体験した当時は無意識に流していた事柄でも、五感が反応していさえすれば、あとからいくらでも思い出せる。傷を負った部位を正確に確かめるのも、悲鳴を文字に置き換えるのもたやすかった。
「風化しない過去。精細な記憶。感情を絡め取られて想起する。思い起こせば、再度それを体験しているかのごとき感覚に陥るだろう」
「実際はただの思い出なのにな」
これでは、現実と記憶の区別が半ばついていないようなものだ。発した声には思いがけず自嘲が滲んでいた。
「喰鬼と、幼き〈星〉。その光景にお前は何を想ったのだ」
ざくり、ざくりと、足下で細かな氷の粒が潰されていく。
「冷静さを欠いたと云えば、『両のかたちの違うからだ』に関して神官に問いかけた際も、我が目には動揺している様に映った。それも関係があるのか」
カノンは否定しなかった。沈黙は肯定だった。
「詳細を聞きたい」
「……記録する価値があるとは思えないが」
「其れを判断するのは我ぞ」
徒話を途中で中断させられるどころか、続きを望まれた。眠気はすっかり吹き飛んでいる。
カノンは少々戸惑いながら、語り始める。
そもそも、ことのはじまりは――。
事の始まりは、カノンが産まれる前にあったと聞く、いまわしき予言だ。
ハイリヒザルクを治める一族の長が〝神〟から忠告を受ける夢を見た。
「近々、村を滅ぼしうる力を持った子が生まれる」のだと。
ほどなくして、雪よりも白い髪と、血のような紅い目をもった赤子――カノンが誕生すると、それが予言にあった子だとされた。しかし信心深い人間といえども良心は無視できなかったらしい。一度は検討されたものの、カノンが殺されることはなかった。
カノンは長の孫であった。子を想う母親が自身の父親に懇願し、請われた長は娘の願いを譲歩しつつも聞き入れた。
村の内では育てない。不吉があった時はすぐに処する。それら条件のもと、カノンは別所に預けられることとなった。長の娘つまりカノンの「母」や親族から、そう聞いている。
当人らの意向をまるで無視し、育ての親として選ばれたのは、村のはずれ、そこから更に離れた場所に住む夫婦だった。
災禍期に喰鬼と戦い続け、やがては村への邪悪の侵入を阻む役を担うようになった人間の、末裔たる男。山のふもとの集落から嫁いできた奇特な女。
彼らは当世においても、喰鬼を討伐する役目を負わされていた。村にとってなくてはならない存在だが、屍喰らいと対峙しそれを討つという役割上か、代々、夫の家系は穢れた血筋として忌避されていた。
村の長は、不吉の子の影響によって不幸を被るのは、まず身近にいる人間からだと考えていた。犠牲になって問題ない者を選び、その夫婦にカノンを押しつけた。
直接手を下すことを忌避し、夫妻が代わりに行ってくれることを期待した部分も大きいだろう。あくまで、結婚してから長らく子に恵まれるようすのなかった夫婦の、妻がまさか乳母をやれる状態だったことは予想だにしていなかったらしい。
カノンを引き取らされた際の、夫婦の心情は想像に難くなかった。
村との交流は最小限に留めるよう強いられていた。ものを買うにしても、喰鬼の角を売るにしても、山を下りなければならなかった。多くを自力で賄う生活を送っていたのだ。
そのうえ妻はカノンが誕生した直後に、子を産んだばかりであった。
しかしカノンは、事故に見せかけて殺されることも、育児を放棄されることもなかった。彼らはおそろしく人が好かった。
暮らしは裕福でこそなかったが、環境やこどもの人数を考えれば十分な余裕があった。かみさまの祝福のおかげなのだと、夫妻が話しているのを聞いたことがある。
子宝に恵まれてからというもの、山の恵みは豊かであるし、作物の実りもよい。麓では家畜の調子が長らく良好で、畜産物を喰鬼の角と快く交換してもらえる。そんな内容だ。
少なくともカノンが飢えを知らず、また、彼らの体が痩せこけていなかったのは事実だ。
そしてなにより夫婦は、カノンにもきょうだいと等しく接した。後に真実を聞かされるまで、カノンは彼らを実の親だと信じて疑わなかったものである。
血の繋がりがなくともそう呼んでいいのならば、そこには父と母、兄と妹が在った。
物心ついたときから、あの家での暮らしが終わるまで、不幸せな時間を過ごしたことなどは一瞬たりともなかった。
あの日々を終わらせたのは、つまり不幸をもたらしたのは〝悪しき神〟などではない。その依り代とされた、血のつながらないきょうだいでもなく。他の誰でもない、村の人間どもだった。
腹の底から憤怒が湧きあがっている。カノンは声の震えを徐々に抑えられなくなっていた。
「状況が一変したのは、僕が七つになる前の、ある晩のことだ」
夏が過ぎ去り、秋が暮れようとする頃。突然、村の人間が家を訪ねてきた。
カノンは寝かしつけられたばかりだったが、激しく戸を叩く音に飛び起きた。隣で同じく目を覚ましていたきょうだいと一緒に、すがたの見えない夫婦を探して、部屋を出た。
玄関から人の影が床に伸びていた。夫婦の向こうには、彼らと同年代の女を先頭にして、鉈やら杖やらを持った者たちが戸口に構えているのが見えた。物々しい雰囲気だった。
カノンは、夫婦と口論している女に見覚えがあった。ひとりで外に出ているとき、遠くからこちらを監視しているような女のすがたを、数回、目撃したことがあったのだ。
自分達は村に行ってならないと聞かされていたため、村の人間が来るのはいいのかと、理不尽さに不快感を覚えながらも、それ以上は気に留めていなかった。
ふいに女が叫んだ。カノンとともに様子を窺っていた幼子を見て、必死の形相で言った。
予言の子は、やはり我が子ではなかった。その子どもだ――と。
女はカノンの実母だった。彼女は、不吉の子とされて他所に預けられた我が子を、未だにあきらめてはいなかったのだ。
己から我が子を奪ったのも、その、悪しき神の依り代だと、女に指をさされたのは、生まれついて左右の色が異なる目をもつきょうだいだった。
おそらく女は偶然に、日中は包帯に隠されている片目のいろを知ったのだろう。
子は、包帯を勝手に外してはいけないと親に言いつけられていた。
しかし時たま、かゆみや蒸れに我慢ならず、ひそかに包帯をずらしたり、緩めたりしていたことがあったのだ。
女の言葉を皮切りに、村人らが家に押し入り、全員を外へと引きずり出した。抵抗は数で囲い、殴って抑え、夫婦と子を縛りあげて村へと連れていった。
カノンは身体の自由こそ奪われなかったが、状況を呑み込むまえに一度だけ頭を殴られた。意識が朦朧としたまま、母親に抱かれ、一緒に連れていかれた。
そして、連れていかれた先――神殿の真上だという場所で、曰く、悪神の寵児をほろぼす儀式……年端もいかぬ子どもに対する蹂躙がはじまったのだ。
「それと、喰鬼に襲われる〈星〉の姿が重なったという訳だ」
「状況もなにもかも違うのにな」
〝悪しき神〟の依り代という烙印を捺された子は、容赦なく袋叩きにされ、腱を断たれ、赤く熱した火掻棒で両目を焼き潰された。
一方的に凌じられる光景を見せられていた夫婦らも、やめてくれと騒げば、儀式を見守っていた村人達に撲られた。あれを庇うのは精神を侵されているからだと罵られ、地面に転がされて、顔を覆うことすらできずに、ひたすら残暴な仕打ちを受けた。
必死の命乞いも悲痛な懇願も、村人らは聞き入れなかった。
「村に着いたころには意識がはっきりしたし、もちろん僕は星術で止めようとした。でも、体力がもたなかった。最初だけ邪魔をして終わった。逆に抑え込まれたんだ」
大人たちに上から押さえつけられ、口の中に泥が入りこんだ。抗おうとすれば、やがてはもがく体力も尽きた。
たえない絶叫が、ふいに途切れて、引きつった嗚咽に、やがて虫の息へと変わっていく。そしてカノンの「母」が星術で消えぬ炎を熾し、最期の叫喚。
カノンはすべてを漏らすことなく聴き、無残な姿に成り果ててゆくのを、ただ見ているしかなかった。
その儀式が行われた場所のすぐそばには、地下の遺跡のどこかと繋がっているという、井戸のような穴があった。
黒く塗りつぶされていく視界で最後に見たのは、そこに放り込まれる、辛うじて人間のかたちを留めているこどもだった。
「だから――理由になってるのかもわからないが――思わず、あんな行動に出た」
頭骨の内側で、耳をつんざく叫びは反響し続ける。
やがてはまぶたの裏に村人らの面が浮かび、ざらついた音が増える。
『予言の解釈を誤っていた』
『悪神の寵児のそばにいながら穢れず、その居場所を教えた子ども』
『悪神の子に対する、善神から遣わされた子だ』
『もう不幸せな思いをしなくていい』
なにも不幸ではなかったとカノンが反論すれば、母親をはじめとする者たちは「〝悪しき神〟の依り代と、それを庇っていた悪しき人間に、すっかり都合のいいように思い込まされてしまったのだ」と嘆いてみせた。
あたかも被害者のごとく振るまう悪辣なるものの顔が、光を閉ざした視界に焼きつく。
灼熱する怒りが全身に巡って今にも叫び出しそうになるのを、カノンは唇を噛んで堪えた。唇に痛みがはしる。口内に鉄の味が広がった。
「我には理解できぬ」
ヨハンは一瞬立ち止まり、カノンを背負いなおす。
「いい。同情してほしいわけじゃない」
「しかし、恐らくは理由として十分であろう」
ヨハンはまるで慰撫するような物言いをした。こわごわと赤子を抱く手つきを連想させるぎこちなさだった。
カノンの高ぶった神経が、熱くも冷たくもないぬるま湯にひたされる。
心を穏やかにさせたいのならば、理解不能といったあげくに「恐らくは」などと付け足すのは悪手である。カノンでも分かることだ。されど不思議と腹立たしさは感じなかった。
「想起の制御に有益な知識があれば教えたのだが、残念だ。これまで、限られた分野の記憶に長けた〈星〉や、精神に傷を負わせた出来事の記憶のたぐいを繰り返し見る〈星〉は居た。しかしお前のように、我と同様、すべてを刻む〈星〉は――」
等しい間隔で聞こえていた足音が、刹那乱れる。
「そうか。……そういう事か。お前もまた、遺却を知らぬ者であったが故に、我が傍観者であると容易く信じたのだな」
何かを納得した様子でヨハンはひとり呟いた。
脈略のないその言い回しに――カノンは、俄には信じがたくも、そう考えざるを得ない、寝言じみた仮説が正しいのだという確信を得る。
カノンの記憶力の特異性を疑わないのは、比喩ではなく、彼もまた忘れない者であるから。しかしカノンとは異なり、記憶を刻み始めたのは遥か昔からだと宣う。傍観者とは、つまり。
単刀直入にカノンは問うた。
「おまえは、〈星〉(にんげん)なのか?」
無意識に息を凝らし、男の返事を待つ。
星魔石が蓄える元素量を把握し、カノンの星術と同等かそれ以上の術を複数扱ってみせる傍観者は、その正体を明かした際と同じく、恬として答えた。
「仮に、五百を超える時を生きた〈星〉が存在しうるのであれば」
五百。
呆気にとられながらも、その数字に、真っ先にひらめく出来事が一つ。
「……災禍期の世界を観た?」
予想を上回る返答に、カノンは半信半疑でたしかめた。ヨハンは首肯する。
「厳密にはその終焉を。記録の始まりは、満身創痍の星々が喰鬼を討つ光景だ。程なくして、喰鬼は人里に姿を見せなくなった」
「そのときから人間のことを〈星〉って呼んでたのか。後からそう呼ぶようになったのか」
「既知なる事柄であった。其れの名が〈星〉である事、我は〈星〉と異なる存在である事」
「世界の、自然法則についても詳しい?」
カノンは矢継ぎ早に質問を浴びせた。そろそろ宿にも着く頃であるし、部屋に戻ってから落ち着いて聞けばいいのだと頭ではわかっていたが、さすがに気持ちが逸った。
ヨハンは気分を害したそぶりも見せず、淡々と受け答えをする。
「殆どの〈星〉とは比べるべくもない」
「自分がどこから来たか、観測する役目はどこで得たか。なんでそういう役目を負ってるのか。それについては」
「知らぬ」
五百年分の記録として埃を被った棚にしまわれているのではなく、目のまえに開いたままの本に刻まれている内容の範疇なのだろう。返しが早かった。
「じゃあ、逆にどこまで知ってる? 記憶がはじまった時点で、何をすでにもってた」
「我にあったのは、己が傍観者であるという自覚にして役割。観測に値する価値判断の基準。知る過程の無き、数多の知識。お前はいま色々と疑問を抱いている様だが、我は意に介した事など無い。それのみで足りた」
足りたのだ、とヨハンは不意に含みのある言葉を挟んだ。少し間を置いて、続ける。
「そう。疑問を抱いた事は、今まで一度たりともなかった。我は何より生まれ、何ゆえ傍観者はものを観るのかと。それはひとえに己を顧みず、そして我が傍観者であることを信じる〈星〉と遭遇しなかったがゆえ。ところがお前は信じ、疑問を呈するまでに至った」
カノンは次々と明かされた事実の咀嚼に思考を割いていたが、ひとたびそれを止めた。
「〈星〉、喰鬼、元素。いずれにも当てはまらぬ傍観者とは、何者であろうな」
ヨハンと出会ってまだ日は浅い。だがカノンは彼に生じている小さな変化を感じとっていた。あの夜、誘いを受けて手を差し出した相手は、ほどなくして姿を消す予感がした。
はなれるべきだろうか。未使用のナイフはまだ残っている。しかし――。
「ここで下ろしてくれ。もう大丈夫だ」
見覚えのある建物の屋根が視界に入ったあたりで、カノンは長らくしがみついていた腕をゆるめた。ヨハンは立ち止まる。
「宿はすぐ其処だ」
「もうひとりで歩ける。……でも、助かった」
次にヨハンはなにも言い返さず、腰をかがめてカノンを解放した。カノンはしっかりとした足取りで雪を踏み、彼の前へと回る。脚に括りつけた鞘には触れなかった。
「もしやすると、だが」
ヨハンと視線が交わった。こがね色を帯びた黄銅の双眸。
「我が正体は、姿を変え、己が為した悪行も、己が何者であるかも悉く忘れた〝悪しき神〟やもしれぬぞ」
たちの悪い揶揄でも、投げやりな悲観による発言でもない。カノンの、いうなれば覚悟と呼ばれる類いの、意志を質すものだった。
ばかばかしい、とカノンは思う。
「そうだとしたら、むしろ願ったり叶ったりだ。おまえに思い出させて、少しだけ協力してもらえば全部済むんだから」
依り代と呼ぶものを介さずに〝悪しき神〟が目の前に現れれば、耳を塞いで虚構を盲信する者たちも、否応なしに真実を受け入れる。自分たちが排したのは〝悪しき神〟でも、それに連なるものでもなかったことを悟るだろう。
「仮に我が、殺戮の限りを尽くしていたとしても」
「自分もその対象になる可能性は考えなくちゃいけないが、うまく逃れられれば些事だ」
虚勢ではなく、本心から出る言葉だ。
「其れは〈星〉にとって、非難に値する所業のうちに数えられよう」
「だったらどうした」
面紗で顔を覆われ、神に仕立てあげられた者の正体が傍観者だったとしても、たとえば災いをもたらす力を有していたとしても、いったい何を躊躇おうか。
赤黒い血にまみれた、あの地下の光景が脳裏によぎる。
求められるならば納得のいくまで答えてやるとも。あのようになって然るべきだったと。
カノンはひときわはっきりとした口調で言った。
「僕は正しく在りたいんじゃない。僕が正しいと思うことを、そうだと証明したいだけだ」
鮮紅の底で篝火が爛々と燃えさかる。
つかのま陽を覆う雲が晴れ、ヨハンの首元に濃い影が落ちた。彼は、わずかに目を細めたようだった。
6
傍観者の原初の記録、〈星〉でいうところの記憶の始まりは、血と泥をかぶった人間達が、傷を負いながら、喰鬼の群れを殲滅する光景である。
奮闘する〈星〉の後方からそれを目の当たりにした自分は、彼らの戦うさまを観て、記録に留めておかねばなるまいと思った。荒野に立ち尽くしていたことに不安は湧かなかった。惑わず恐怖せず、無感動に、ただ己の役割を自覚した。
役目を強いられて肩にかかる重みや、果たさねば生きていられないといったような焦燥は、およそ縁遠い感覚である。
それならば何故、傍観者はものを観るのか。まだ観ぬ〈星〉の在りようを、ことさら記録しようとするのか。
〈星〉の子のたった一つの問いをきっかけに、呆気なく生じた疑問。まるで靴にさざれ石が入っているようだった。やむを得ず、長い時を歩んできた中で初めて、自己とは名ばかりの寥々と空いた甕を覗いた。
判然としたのは、たとえば地底で赤く煮えたぎる岩漿の海や、蒼穹を写す塩の砂原を、一度も目にした経験は無いこと。元素の源のありかや、喰鬼を成す要素の存在を、どこかで耳にした覚えも無いこと。されども、確かにそれらを知っている事。
一方で、魂の造りや星辰の仕組みといった種としての知識を除けば、観測した以上には〈星〉を知らないのだという事。
――それが、傍観者の正体と係わっているのか、今のヨハンには判断がつかなかった。
傍観者は、保持できる記録の量に限りが無い。感情のはたらきを真似た機能は記録に反応しない。つまり〈星〉とは根本的に造りが異なる。
カノンは、正真正銘の〈星〉でありながら、抱えられる記憶のかさが異常に多かった。傍観者のように心臓が止まる時まで、その量が増え続けるのではないかと思わせるほどである。
〈星〉の記憶を保つ役目は、その魂が担っている。カノンのそれは、五感から得たもの全てを書き留めていた。似通った記憶も個々に区別する。無意識下に刻まれていなかろうと、旧いものから衰退させることなどもしない。
傍観者と決定的に違うのは、記憶を眺めるつど感情が煽られるらしいことだ。
凡常の〈星〉が、過去に受けた痛みは時間の経過とともに薄れ、それを乗り越えるのならば、カノンは何度も過去を繰り返すなかで、痛みに慣れていくしかないのだろうか。
そうとなれば、いっそ心が記憶を直視することを止めてもおかしくはなかった。
しかしカノンは、その目の精彩を欠いていないという意味では、やはり正気を保ち続けていた。色褪せぬ記憶を認識しながら、魂はまるで壊れずに在る。
彼は「厄介だから勝手に思い出すのはどうにかしたい」と不満こそ口にしていたものの、心が担う役割の放棄を望むようすはない。
折れぬ心に、あわせて現実と見紛う記憶の繰り返し。過去の想起が経験を積むのと近しい作用をもたらすとすれば、少年が異様に大人びている理由にも説明がついた。
もっとも、感情的になりやすい部分や、取り立てて傍観者のことばを疑うそぶりを見せない――一応鵜呑みにはしていないようであるし、相手が、久方ぶりに嫌悪せずに済む大人だという事も影響しているのだろうが――部分などは年相応である。
情緒を理解する力に至ってはまるで未熟であった。記録を参照できる分、傍観者である自分のほうがまだ理解している。
非凡な記憶力も含めて、少年は、見方によってはいびつであり、そしてまぎれもなく稀有な〈星〉だった。記録すべきものだった。
何もかもを奪われ、空いたうつろを埋めようとするよりも、意志を武器とし携え立ち続け、そして歩きだした子供。
もしも、少年の信じて疑わぬ正しさが脆く崩れはじめたとしたら。幾ら求め足掻いても、真実に辿り着けぬ状態が続いたとしたら。しかし如何なる過程や結果が待ち受けていようと、依然として心が砕けずにあるのならば。
歩みが止まるその果てを見届ける役割は無くとも、終わりを予感できる瞬間まで、記録し続ける務めが傍観者にはあった。
あるいは、その役目を望んでいる。
「いろいろ考えてたんだが」
再び戻った宿の部屋。ナイフの背で靴にこびりついた喰鬼の血を剥がし、地道に落としていた〈星〉の子が、ようやく顔をあげた。
「おまえは災禍期の終わりを観た。だったら、災禍とやらに何か関わってるかもしれない」
ヨハンは背もたれに預けていた体をわずかに起こし、腕を組み直す。
「我は災禍の原因、もしくは悪神の原型であるとでも」
「僕はそう思わないが、現状だと否定しきれない。だからこそ、傍観者がなんなのかを解明すれば、〝悪しき神〟の正体を明かすことに役立つ見込みも同じくらいある」
カノンは落ち着いた態度で述べる。
喰鬼を従え、後世まで語り継がれる暴虐の限りを尽くすもの。確かに〈星〉と、〈星〉ならぬ者を比べれば、そういった言伝えを創らせる可能性が高いのは後者だろう。
「おまえの正体がなんであれ、これからなにか思い出すことがあれば助かる。いま覚えてるよりも前の記憶があるのかは定かじゃないが……でも、一応確認しておく。僕がおまえの正体を探るのは、取り決めに反するか?」
至極真面目に言って、カノンはこちらをうかがい見た。
そこまで大仰なものを交わしたつもりはなかったものの、ヨハンは「如何なる行為も背約に当たらぬ」と答えた。カノンが自身の命を他者に委ねることがあれば、約定の反故に該当するかとも思ったが、本人の意思による選択である以上、それもまた彼の生きざまだ。
「だったらいい。それじゃあ僕は今晩、聖堂に入って、伝承を記した本を見てくる」
「事もなげによく言う」
「その場では文章を画として覚えるだけにして、あとで読み込むようにする」
「我が言わんとしているのは、いや、良い。侵入するとなれば、悟られる前に発ってしまうのが賢明だ。なれば先に、今後の行く先を決めておかねばなるまい」
「そう、僕はこっち側の地理を全然知らないんだ。だから、おまえの意見を聞きたい」
カノンは元々、南に向かって山を降りるつもりだったと話していた。現在ふたりが滞在しているのは、洞窟を抜けてハイリヒザルクの北方に位置する町である。
ヨハンは頭の中に地図を広げた。説明をすべて口頭で済ませるよりも、まずは先にこれを教えておこう。認識の齟齬を防げる。
しかし図を書き記す道具など、両者ともに所持しているわけがなかった。室内を見渡し、代わりになりそうなものを探す。ひとつ、使えそうなものがあって、ヨハンは腰を上げた。
「なにをしてる?」
「地図の代用だ。宙に描くよりかは悪くないであろう」
ヨハン外套を寝台に広げる。天鵞絨のように光沢があり、起毛の処理の施された布地を指の腹でなぞれば、線が引かれた。
「此処から海岸までさほど遠くはなく、沖へ出てしまえばどこへでもゆけるが――」
一通りの説明を聞き、諸事に考えを巡らせている幼い横顔。
薄氷にしたたる鮮血の眦はするどく切れ込んでいるが、あたかも憂いを帯びているように飾る長い睫毛と大きい瞳は、視線のかどを幾らか和らげる。頬には子どもらしい円みが残っているものの、華奢ながら硬質な線の主張も強い。しっかり結ばれた口元と合わせて、小さな顔をうつくしく、利発さを窺わせるものに仕立てている。
詩を嗜む〈星〉に謳わせたならば、カノンが斯様に端正な相貌をもちながら、かけらも笑わないことを嘆くだろう。畏まった態度とともに着ける陶器の仮面は、少々柔らに緩んでいるようで、その実、微笑に似せたなにかを張りつけているにすぎない。
子どもらしからぬ、鋼玉めいたかんばせの珂雪の星は、〝悪しき神〟が何者であるのかを明白にし、村人らによって血祭りにあげられた子――彼の妹を、悪神の依り代とするのが誤りだったと証明したがっている。
その動機は、復讐。
家族の死に端を発し、仇討ちに駆られる〈星〉は、決して珍しくはない事例である。
だが、少年を孤高たらしめる憤懣の所以が復讐の意志そのものであるかというと、それは否だろう。手段と目的をはき違えるところまで堕ちた〈星〉が、命の息吹で風を炉に送り、火を熾す真似など出来るはずもない。
果たしてカノンは、追憶を以て惨劇を繰り返してしまうがため、それを引き起こした者どもを怨んでいるのか。養父母とその子らが失い難い人間であったため、それを奪った者どもを憎んでいるのか。その両方か。
はっきりしないといえば――あの地下で行われた儀式の意義と内容もまた不明であった。
傍観者が、かの地ことハイリヒザルクを訪れたのは偶然だ。
洞窟を抜けてから、ほどなくして、命が絶える気配と元素の乱れを感じた。その方角へ向かうと神殿から逃げてきた村人と遭遇し、言葉を引き出してみれば「悪神の顕現を阻止するための儀式」が執り行われたことを知った。
かの地の神殿は特殊な場所であった。施設そのものではなく、その立地が、である。
星辰や元素、喰鬼といった、万物の力や性質を増幅させる土地。かつてそれを知っていた〈星〉は、地下に広がる洞穴を整備し、山から運び出した石を加工して持ち込み、長い年月をかけて、神と人のあいだを取り持つ場を造りあげた。
冬が長く厳しい地へと変わり果ててもなお、一握りの〈星〉を山間に留まらせ続けた遠因。
その地で〈星〉が為す特異な行為は、他では観測しえない唯一無二の事柄である。
傍観者にはどうにも区別がつかない、星々の信仰の詳細よりもはるかに、観るに値するものがあった。結果として儀式は中断されたようだが、その産物だけでも見届けようと、地下へと降りていった。
ところが今は、〈星〉の行為の、そもそもの意義が謎と化していた。
カノンの妹が〝悪しき神〟の依り代であり、それが既に亡くなっているとなれば、災厄をもたらす邪神は顕現し得ないはずである。
依り代なき降臨の予兆があったとするならば、或いは説明がつく。しかし闇より光を好む〈星〉が、〈殷賑〉ではなく〈静寂〉の支配する夜に、悪を退ける儀式を決行するとは考えにくい。村を治める一族の孫が正装でなく普段着、そのうえ防寒が最低限度の装備で、あの場に居たことも不自然だ。どうも腑に落ちなかった。
傍観者が観たものは果たして、儀式により生じかけたものだったのか。
「ヨハン」
――復讐心の源も、儀式で実際に行われたことも、すべて、カノンに話を聞けば判明することであった。
仮に、儀式などとは名ばかりの、狂気に駆られた突発的な奇行であった場合、記録の分類も変わる。委細の確認が改めて必要だ。
「僕の顔になんかついてるか?」
しかし、少年の唇の、赤く引きつった傷が目についた。
今日の午前、聖堂を出る前にはなかった痕である。帰途で噛むような場面があっただろうかと直近の記憶を探り――ヨハンは訊ねるのをやめた。
ただ〈星〉の貌というものを眺めていたのだと、曖昧な返事をするだけに留める。
観測を終えるまではまだ時間があるのだ。いずれ、わかることだろう。
抜けるような青空と、一面に広がるあざやかな黄色。咲き乱れる忘れ草。
家の裏山を登った先に、平らに開けたところがあった。災禍の時代より、結果として喰鬼から村を守ってきた一族の人間のみが知る、特別な場所。
『おかあさん、おとうさん。お花、おうちにかざっていい?』
『じゃあちょっとだけ摘んで持ちかえろっか』
『それなら父さんが、お花をさす容れものを作ってあげよう』
花々のあいだを縫って駆けた。
とっておきのチーズをパンに挟み、全員で並んで座って食べた。
野原にあふれる色彩は、陽光を受けてきらめく子の髪に似ていると思った。
空はそれぞれ微妙に異なる彼らの瞳を、されども同時に映しているようで。日が暮れるまで見飽きなかった。
『きれいだ』
『あ、それさっきも言ってた』
『だってきれいだもん』
『ふふ、そうだね。本当に綺麗』
他愛のない会話に幾百と耳を傾けた。穏やかな表情を幾千と眺めた。
次もまた来ようと約束した。
幾度目かの、最後の夏に見た景色。