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三章

1

 喰鬼の襲撃を受けた町を発ってしばらく、いくつか小さな村落に立ち寄りながら西へ向かっていく。やがて白い地の果てからは山や森が消え、平たく長い、くろがねがかった紺があらわれた。
 雪原を進みながら、ヨハンはそれが海であると教えてくれた。
 カノンは海の存在こそ知っていた。伝承群にその言葉は何度か登場する。川の水は溢れず流れ続けているのであるから、たとえば大地には終わりがあり、そこから先は膨大な量の水で満たされているという話は、一応は筋が通っている。その程度の認識はあった。
 しかしいざ目にしてみると、自分の想像が及んでいなかったことを思い知らされる。
 遠くに見えるのは、端から端まですべて《水》から成るもの。水で満ちているというより、大地がすべて水に代わったようだ。湖とはまったくの別物だ。
「斯様な反応をするとは」
 カノンが二、三度、まなこを瞬かせたのをヨハンは見逃さなかった。
 揶揄する意図がないのは当然として、わざわざ口にしたのは――きっと意味もないのだろう。大抵の〈星〉は見慣れないものを目にしたら珍しいと思い、ときに動揺する。ありふれた反応だ。
「僕だって無感動なわけじゃないぞ」
 口数が少なくはない男である。カノンが適当な相づちを打つ回数も自然と増えた。
 そうして、聖堂を有する町をはなれてから十と少しの夜を超え、辿りついた大地の端。
 たまたま港に滞在していた行商人から、女子向けの衣類を紹介された。カノンは、性別を間違われるばかりだったこともあり、いっそのこと少女の格好をしてしまえばいいと、異性然とした衣類を調達した。
 今後ハイリヒザルクの生き残りとどこかで遭遇しないとも限らないのだ。その折、自分が村のおさの孫であると気づかれようものなら、面倒な事態を招く。
 雪白の髪を淡紅に染め、傍観者が可憐と評価するような服に腕を通す。彩のある色合いの生地、要所要所にフリルがあしらわれた独特の輪郭、動くつど揺れる裾、腿に着けたナイフを隠せるパニエ。これで、そう簡単に正体はわかるまい。
 声変わりが先か。顔つきがおとなびて、体が成長し、看過しがたい違和感が出るようになるのが先か。いずれにせよ、しばらくカノンは女子の装いに身を包むことにした。
 耳よりも上で髪を二つに結わえてしまえば、いよいよ少年であると思われないらしい。補給ついでに旅人を運んでくれる商船へ乗り込む際、船主にあやしまれる気配はなかった。
 カノン達をのせた船は難なく海を渡って、ハイリヒザルクをいだく山々を越えた。
 貨物とともに波に揺られる時間は、海に見慣れてしまえばあとは退屈であった。海棲の喰鬼に出くわすこともなかったので、カノンはヨハンの回顧談に耳を傾け、少しでも気になる点があればすぐに質問をするなどして暇を潰した。
 ヨハンは、経験と人間の限界を超えた知識を有している。
 少なくともカノンには完璧に見える地図が描けるのも、あらゆる地で迷わず道を往けるのも、彼が傍観者であるからこそだという。空を飛び回って世界を眺めてもいないのに、天から一望した画を思い浮かべることができる。
 そして、五百年分もの記録を保持し、いまも新たに書き加え続けている。
 お互い忘却を知らないものであるが、その記憶力に優劣をつけるのであれば、彼のほうが優れている。
 船尾で潮風を受けながらカノンは何気なくつぶやいた。含意はなかった。
「一概には言えまい」
 海峡へ向かって下る船路は比較的穏やかで、男のひそめた声はカノンにのみ届く。
「我が記録に欠落は存在し得ぬ。然れどもお前のように、文字通り見聞きした全てを書き記しはせぬ」
「じゃあ、たとえば後でいまの出来事を振り返って、この積まれてる荷の数をかぞえられないってことか」
「記録する価値が降って湧かぬ限りは。一時的に記憶も凡常の〈星〉と同等であるから、不可能に近い」
「なんだ。そもそも別物だったな」
「……否。それでもやはり、お前は我と同様『忘れ得ぬもの』であろう」
「僕のは記憶で、おまえのは記録なんだろ?」
 自分は見聞きしたものを片端から記す。傍観者は情報を選別したうえで膨大なそれを書き込む。似ているようで違うものだと感じた。されどもヨハンは緩くかぶりを振った。
「其処は焦点ではない。忘却とは喪失だ。そして、我は一度記録として得た物を失いはしない。ならば同じ事」
 初めから覚えようとしていないのだから、覚えていない事柄があろうが忘れたわけではない、と。物は言いようである。
「傍観者を理解できる、稀なる〈星〉だ」
 ヨハンの喋りは、出会った当初は風のない夜の湖面を思い起こさせたが、いま脳裏に浮かぶのは深い森に流れる沢だった。波音が鼓膜をふるわせ続けているから、音の調子が変わって聞こえるのだろう。
 
 傍観者。見た目は〈星〉となんら変わりないが、実態はそれとは程遠い。
 年齢は人間の寿命をゆうに超え、食事は不要、最低限必要な休眠も人間よりずっと少ない。一度憶えた事柄を決して忘却しない能力。喰鬼に狙われやすい体質。
 生来〈星〉個人と深く関わったためしがなく、カノンに呼び名の決定をゆだねたのも、単純に名前を持たないがゆえであった。
 〈星〉でも、喰鬼でもない。
 六柱に関わるものなのかと一度は考えたが、その線は早々に消えた。六柱は一つまたは二つの元素に一柱ずつ対応しているが、彼の星辰に相当するものは《地》《水》《火》《風》と四つある。
 駆使する星術も四種。おまけに出力調整は自由自在、かつ上限がいまだ知れない。術自体も純粋な元素そのものを操るために――線引きは不明瞭だが、カノンのように鎌風を作り出す芸当まではできないとはいえ――使い手の発想次第で為せる内容の幅がどこまでも広がる。
 強力で器用、非常にすぐれた星術だ。消費する体力量も少なく、使わない手はないだろう。
 ところが彼は、星魔石とそれを囲う鋼の檻が頭の杖もといメイスをたずさえ、路銀を稼ぐための喰鬼討伐でそれを多用した。
 訊けば、〈星〉が作った道具をあえて使うのは耐久を試すためだと彼は答えた。力を温存するといった目的はなく、あくまでヨハンは〈星〉の技術の果てを観ようとしている。
 喰鬼と対峙しても、傍観者としての役割を優先させる余裕があるのだ。
 ……それに対して、自分はまだ弱い。
 海を渡り、再び大地を踏んで幾日。
 真冬だというのにくるぶしが埋まるほどしか雪の積もっていない森で、路銀を稼ぐために喰鬼複数と交戦した。
 眼孔から蜘蛛の脚が生えた熊にカノンはそれぞれダガーを投げ込み、動きが鈍ったところで向こうの手が届かない距離から数発、風鎌を叩きこんだ。巨体に見合わない俊敏さで近づいてきた個体の鉤爪をすんでのところで躱し、大きく開いた口から脳天までを切り裂いた。
 最後の一体が倒れこみ動かなくなると、静まった森の中で、乱れた鼓動の音だけが耳障りだった。
 自分の足でまっすぐ立てている。戦えている。
 しかしながら今、ひとりであの晩に戻って――夫婦らを傷つけず傷つけさせず、あの場に居た村人全員を殺せるかというと、その光景をうまく思い描けないのだ。
 あれから数年経っても、惨劇の結末を想像上ですら未だ変えられずにいる。
 鍬だけを振るい暮らしてきた大人でも、複数集まれば手こずってしまう。何度展開を考えても途中でかならず隙が生まれる。反撃させない攻めの流れが止まる。この手で彼らを切りつけてしまう。
 星術の使いこなし、体力の配分、集中力の保持、四肢と感覚の扱い方。どれが、なにがいけないのか。術の性質上やむをえないとは言わせない。
「また薬での療治を前提に動いていたな。喰鬼による怪我は治り難いと言ったろうに」
 カノンがしゃがみ込み、屍喰いの角を探しだすため残骸をナイフでかき分けていると、頭上から小言が飛んできた。屍の成れはてを積みあげたというのに、ヨハンに息の乱れはない。
「気にしてないのはかすり傷までだ。それくらいならきれいさっぱり治るんだからいいだろ」
「完治の代償たる激痛は、いざというとき大きな隙となる。それから、その手つきでは血が跳ねる」
「跳ねたらすぐに拭く」
 喰鬼の血には、極力さわらずに済ませる。これは人間や動物の血でも変わらない対応だ。不用心では困るが、かといって喰鬼の血にことさら神経質になる必要はないとカノンは思っている。
 血の付着した箇所が激痛に苛まれはじめるのは、接触し続けて一定の時間を超えてからである。少なくはない返り血を浴びたあの聖堂での戦闘でさえ、宿に戻ってからの拭き取りで十分間に合った。頬の痛みもせいぜい大人の手に叩かれた程度だった。
「雑な自覚は有る様だ。必要以上に急く理由でも?」
 獣のはらわたのような泥と白雪が混ざりあっていく。
「体調の不良か」
「なんともない」
「ならば一体何に苛立っている」
 しつこく問われて、カノンはつかのま手を止めた。
 八つ当たりだ、とため息をつくように答えて、刃先にふれたものをゆっくり手前に押し出す。
「自分がまだまだ弱くて腹が立った」
 獣の牙めいた突起物を、まだ白く残っていた雪へこすりつける。ある程度血を落としてから袋へ収めて、これで文句はあるまいと視線をくれてやる。
 ヨハンはメイスの石突きを足元の白でぬぐい、戦闘の構えを解いた。顎に手をやり、考えるようなしぐさをする。
「なれば我に背中を預けてみよ」
 発されたのは突拍子のない言葉だった。
「……僕の弱さをおまえの力で補えっていうんじゃないよな」
「助言だ。お前の、独りで戦わんとする姿勢を変える為の」
 カノンは怪訝な顔をしてみせ、話の続きを促す。 
「最たる課題は疲労、つまり星術の体力効率の悪さ。此れはお前も異論が無かろう」
「いまさっき痛感したところだ」
「解決するには術の発動を工夫し、状況に応じて消費量を減らせばよい。然れども出力調整の要領を教えたところで、加減知らぬ戦法を続けるならば習得は困難。改善しようにも、常に最大出力が大前提となっている」
 顔を見上げつづけているのも首が疲れてきた。カノンは立ちあがる。
「先ずは肩の力の抜き方を覚える事から。端的に謂えば、手加減をしろ」
「でも、全力で臨まなかったばかりに窮地に陥るようなことがあったら、元も子もないだろ」
「そこで我を頼れば良い」
 ようやく話が繋がった。
 自分の身の安全と命を保障してやる。だから安心して加減を試みるといい――。背中を預けろとは、つまるところ妙な提案だった。
 ずいぶんと親身だなと口にしかけて、カノンはそれを飲み込む。
 ヨハンがこちらに協力的なのは〈星〉として物珍しい自分の在りかたを観察させる、その対価である。表現としてふさわしくない。
「もう十分あてにしてるんだが」
「妥当かを判断するのは我ぞ」
「僕がおまえに提供できる利益と釣りあってるか?」
「傍観者たる我が、純粋な供与の提案をするとでも」
 ヨハンの言は尤もだった。カノンはやや浅く頷く。――あいまいに返したのは、すでに相当頼っているからである。反射的に彼を警戒することはなくなり、喰鬼の討伐では現に戦力として数えている。これを利用と呼ばすしてなんと呼ぼう。
 もっと活用してくれて構わないというそれは、おそらく一般には厚意と呼ぶのだ。けれども傍観者が〈星〉に同情などするはずもない。そうとなれば、自分を観測しようとするような男であるから、ようは評価が甘いのであろう。カノンは結論づけた。
「記録する価値を期待してくれてるんだったらいい」

 喰鬼の角を加工して得られるさらさらとした乳白色の粒は、他の何よりも優れた肥料や、星術による作用を高める薬剤になる。
 森で手に入れた十数本の屍喰らいの角は、銀貨五枚といくらかの小銅貨へと換わった。
 規模、賑わい、人の数。その量や勢いが、カノンにとってはいっそ暴力的なまでに感じられる町での取引きだった。市街でその手の店を見つけて持ち込んでみれば、他の日に回収した分と合わせ、積まれた硬貨に金色もまざるほどであった。
 邪悪より出でし喰鬼の角であるが、太陽の光に一日晒すと邪気が祓われる。角を消費するとはつまり、喰鬼もとい〈虚〉に奪われていた元素を世界へ還元する行為である、等々。そういった仮説・迷信が浸透しており、ひとは安心して利を求め喰鬼を討っている。
『父さんは、喰鬼から村を守れることが嬉しいんだよ』
 ――ハイリヒザルクへの”邪悪の侵入を阻む者”もとい喰鬼を討つ一族の末裔達が、代々役目を果たした理由には、善を為すものとしての誇りの存在が大きかった。
 角の入手は使命遂行の副産物で、討つ動機はあくまで〈星〉に害なす異形の排除に依拠していた。
 最後の末裔にあたる男は、先祖のはなしや己の矜持についてほこらしげな表情で語った。頻度はそう多くなかったが、話が長いときは飽きた子どもにそっぽを向かれ、妻に笑われていたものである。やんちゃが過ぎた子への罰のように聞かされることもあった。
『みんなでしたの村に住めばいいのに。そしたら山をのぼったり、おりたりしなくて済む。お父さんもらくになるよ』
『はは、ありがとうな。でもそれは……しないかな。父さんは母さんと、おまえたちと一緒に、ここで暮らすのが好きなんだ』
『じゃあ今、しあわせってこと?』
『もちろん』
 彼が誇りを捨てられたならばその幸せとやらも続いただろうか。きょうだいが産まれた時点で山を下りていただろうか。
 栓無きことだ。

 カノンは床に敷いた毛布のうえで懐炉がわりの星魔石を抱え込むように背を丸める。
 ――あの晩秋の夜が明け、体力を使い果たして気を失い、次にカノンが目覚めたのはすべてが終わった後だった。
『あれは神殿の穴から〝底〟へ落としたわ』
 こちらから問いただす前に「母」は喋りだした。
『だから怖がらないで。仕返ししようと襲ってくることはないから』
 口調は穏やかであったが、表情はどこか興奮した様子だった。我が子を取り戻した喜びとやらを抑えきれていなかったのだろう。
『あのひとたちは、あなたの家族であるふりをしていたの。悪いひとたちよ。だから追い出したの。そして喰鬼が連れていった』
『あの小屋にはもう戻らなくていいの。もやして無くしておいたから。なくなっちゃった物はまた揃えてあげる。いいえ、もっと素敵でいいものをあげる』
 女は、子に言い聞かせて安心させようといった態度でもあり、未練を断ち切らせようといった態度でもあった。
 怒りのあまり二の句が継げない自分のようすを、愕然と真実を受け止めているのだと勘違いしたのか、女は両手で子の頬を包んだ。
『あれたちのせいで辛かったでしょう。でもこれからはわたしが、村のみんなが、あなたを幸せにしてあげる』
 何度も叫んだ。酸欠で頭が眩み、唾に血が混じっても、何度でも叫んでいる。
 おまえはいったい何を言っているのだ。〝悪しき神〟などのせいではない。
 自分からしあわせを奪い、不幸にしたのはおまえたちだというのに。
「――眠れぬのか」
 囁きが耳朶を打つ。
 顔をあげれば、半身を起こしているらしいヨハンの視線を暗闇になれた目がかろうじて拾う。
「雑魚寝だし仕方ない」
 暗に放っておけとカノンは言い捨てる。
 今晩の宿は大部屋のみで、ひとの気配が充満している空間で眠れるわけがないのは初めからわかっていた。
「そうか」という興味のなさそうな相づちもどうでもよかった。カノンはふたたび夜に埋もれる壁へと視線を戻したのだが。
 布擦れの音がして、かと思えば後ろから抱き寄せられた。
 カノンは反射的に腿のナイフへ手を伸ばし――すんでのところで動きを止めた。自分とヨハンの間に他者が入りこめるわけがない。
 とはいえ彼の意図が読めなかった。緊張ではなく戸惑いが、舌の運びをややぎこちなくさせる。
「なに……してる」
「他の気配が煩わしいのだろう」
「話がみえない」
「我の心音に集中してみてはどうだ。警戒の必要が無い分多少は休まるだろう」
 どうやらヨハンは、カノンを気遣っているようだった。
 服越しに触れたところからじんわりと体温は伝わってくる。しかし互いの毛布も挟んで、あまりにも半端な接触のためとてもじゃないが男の拍動など伝わってこない。
 観察対象に体調を崩されては面倒なのだろうが、〈星〉の人のまねごとが下手だった。
 カノンはどうしたものかと考えたが、悩みに悩んだ挙げ句、ゆるい拘束のなかで寝返りを打って、男の胸元に額を押しつけた。
 それでもヨハンの心臓の拍動はいまいちわからなかったが、不思議と少しだけ寝付きがよくなる予感がした。



2

 ヨハンを伴っての旅は「はじめて」の連続だった。新鮮味とともに書きしるされた記憶は列挙に暇がない。
 空気の温度や匂い。土質や植生。多種多様な動物や昆虫。住居の様式、人々の服装や習慣、祭事。
 またたき程度の時間では過ぎ去らず、長く居座り続ける夏。川の水は目も眩むきらめきをのせて悠々と流れ、蜃気楼はゆらゆらにじむ。くらむような暑さが続いた日は、あやうく地面に顔を打つところだった。
 寒風に急かされず、ゆっくりと深まる秋。澄明な大気になおさら色づく木々が空に映え、日月はさやかに照る。慕えば慕ったぶんだけ応える豊穣の気前のよさは、口いっぱいに頬張った焼き菓子の林檎にぎゅっと詰まっていた。 
 実体験に加えて傍観者からもたらされる知識の併記も多く、村に居た頃よりもはやく、記憶の書棚は増えていった。
 食事に関する記憶はかなり多彩になった。
 行く先々で、食事処があればなるべく入るようにし、自前で準備する際は主要な農産物や特産品をたずねてから食材を選んだ。
 伝承や信仰は、人の暮らしと密接なつながりがある。歴史もまた然りである。そして食文化は、両者と切っても切れないものだ。知っておけば集落の風土や交易の流れが見えやすくなる。
 初めての航海を終えたあと、港町の料亭で菓子を注文したわけをヨハンは説明した。実際、彼の言ったことは正しかったように思う。
 ちなみにその時カノンが食べさせられたのは、小麦の平らな生地にざらざらとした甘いクリームを挟んだものだった。いま考えると特別味が濃いわけではなかったが、当時の自分にとっては、苔桃のジャムにはちみつを加えて再度煮詰めればこうなろうかという味であり、少なからず衝撃を受けたものである。

 各地の〝悪しき神〟の伝承を主として、神の扱いや役割、共同体の歴史をしらべるためにカノンらは町や村を渡り歩いた。
 移動の大半はもっぱら文字どおり徒歩であったが、馬を連れた人間と遭遇すれば、喰鬼の角や星魔石と引き換えにその荷台に乗り込むことも珍しくなかった。とくに疲れ知らずの八つ足馬は大幅に時間を短縮できるため、御者を丸め込む口は自然と達者になった。
 訪れた先では聖堂に足を運んだり住人に話を聞いて回ることもあれば、かってに集会を覗いたり無断で書物を拝借することもあった。一般に糾弾を免れないであろう行為も、よほどの危険がない限りヨハンは咎めようとせず、都合がよかった。品行方正な〈星〉へ育つよう導いてくれと頼んだ覚えはないので、当然であるが。
 道中、ヨハンの知識のおかげで路銀稼ぎがため喰鬼を探しまわる苦労はせずに済んでいた。必然として己を鍛える機会には事欠かなかったが、星術の出力を変えられるようになるまではそれなりに時間を要し、力加減の調整をものにするまでは更に遠かった。
 しかし甲斐あって、想像上では秋夜の惨劇を数回に一回は阻止できるようになった。何度繰り返しても必ず止められるようでなければならないが、とはいえ進歩したのは確かである。
 喰鬼ばかりではなく、稽古をつけてくれたヨハンの助けも大きく貢献しているだろう。語弊があるのは承知しているがやたら気前がよい男だ。つくづくそう思う。
 血と肉片の飛び散った広間で出会いを果たしてから、春歌い鳥の斉唱は二度聞いている。
 彼はいつまで自分を観測するつもりでいるのだろうか。

「――いまさらだが、甘味が好きなのか?」
 薄黄色の冷菓をスプーンですくい、舌へのせた。檸檬の香りが鼻に抜ける。
「我のことを言っているのか」
「他に誰がいる」
 照りつける夏の陽ざしが町並みの外壁に反射し、白くひかる日なたから逃れた青い影は店内で涼んでいる。
 風通しのよい窓際の席で、カノンは男の手元を見ながらまたひとくち口へ運んだ。
 ふたりが食べている冷菓は、果汁に砂糖と卵白を合わせて、泡立て、凍らせたものだという。店主が言うには、つめたい湧き水から《水》を集めた星魔石で、外側に塩をふった器ごと材料を冷やして作るらしい。
 このあたりでおもに採れるのは棘のようにこまごまとした水晶である。袋に詰めて利用しているのだろう。星魔石の適正をもつ鉱山資源に乏しい地域では贅沢ともいえるし、この暑さが毎年のように襲ってくると考えれば適切な使いみちともいえる。冷えた食感は、うだるような暑さと汗の不快感にささくれだった気分を宥めてくれた。
 夏の盛りは峠を越えて下りに差し掛かったらしいものの、生まれ育った地よりはるか南の地では暑さも桁違いであり、カノンには程度の差がわからなかった。
「暑さにやられている訳ではあるまいな」
「まさか」
 おまえじゃなかったら馬鹿にされてるって思うところだぞ、とカノンは呆れて言う。
「お前は偶に、突拍子の無いことを口にする」
「だったらなんで僕が食べるとき、おまえも毎回一緒に食べてるんだ?」
 ヨハンが夕食とは別に店へ入ったり、菓子を並べる売店の前で足を止めたりする理由はあきらかだ。各地でカノンに間食をとる機会、つまり経験を増やす機会をあたえてくれている。
 そこで食事いらずの傍観者が同じ行動をとる必要性はない。だが必ずといっていいほど、ヨハンはカノンに合わせてなにかしら食べるようになっていた。以前と違って。
「飯も含めて、こうして店で食べてるときはまだわかる。僕だけひとり食べたら悪目立ちするかもしれないからな。でも、食べ歩きとか部屋に持ち帰るときはまわりの目を気にしなくていい」
 カノンが喋っているあいだにも、甘いみぞれがヨハンの口のなかへ消えていく。どこで習得したのか所作には落ち着きが宿っている。光をたたえる地底湖のそばで、パンを咀嚼する姿に感じていたような甚だしい違和は、すっかり鳴りを潜めていた。
「甘いのが好きなら言ってくれ」
「我に嗜好がある訳なかろう。しかし、仮にそうだとしたら何だというのだ」
「経験から得られる食の知識はあんまり無いんだろ。だからなるべくおまえと別のものを食べるようにして、どういう味がするのか伝える」
 傍観者は変化知らずのいきものではないというのは、男と出会って日の浅いうちに知ったことである。
 短くはない時間〈星〉と行動を共にして、食事のまねごとをして、結果その舌にちょっとした好みが生じてもおかしくはないだろうというのが、カノンの見解だった。
「甘さの程度とか、なんの味に似てるかとか、その程度なら教えられる。いつかそのうち、おまえが自分自身のためだけに選ぶとき役に立つ……かもしれない」
 カチン、とヨハンの手元で音が鳴った。
 匙が器の底にぶつかり、縁のとけ出した氷が中で滑っている。怪訝に思って見上げると、ヨハンはいくらか眉を寄せていた。そういえばこの男にも表情はあって、今ではそこそこ変わるようになった。
「お前にこそ嗜好があるというのに、構わぬのか?」
「おおげさだな」
 提案は気まぐれに近いものだ。少なくともカノンはそう認識していた。しかしヨハンには自分が恩でも返そうとしているように見えて、その目には奇妙に映るのだろうか。
 たしかに、傍観者との関係と保つのに気遣いまがいの行為は必要ない。無意味だ。観測し観測される、それがすべてである。
 感情の種類に区別がつかない顔をしたままのヨハンを尻目に、カノンは暑さで溶けきってしまう前に最後の一口をすくう。
 冷えた氷菓は、するりと喉を通っていった。



 ヨハンのいう「始まりより抱く記録」には、〈星〉には知る機会が永遠におとずれないのでは、と思わせる類の知識も含まれている。地形の成り立ちや、溶岩の海の存在。死した〈星〉の魂のゆくえ。等々。
 世界原理や元素のしくみや日常の何気ない知恵など、人間にとって既知の分野でも、知ったいきさつが想像できない事柄も数多くある。知識獲得の経緯に見当がつかない理由を、カノンの想像力の乏しさとして片づけてしまうのは乱暴が過ぎた。
 さて、現状各地に文書として残る伝承――そのうち神に関連しない内容の文には、人間を教え導きたい意図を読み取ることもできた。
 過去に傍観者と限りなく近しい性質のなにかが存在したとすれば、それが星々に知識をひろめ歩いたのかもしれない。
 むしろそれが傍観者という可能性はないだろうか。答えにたどり着く過程が謎に包まれる知識を、もれなくヨハンは元より知っている。
 けれどもその見解を聞いて、ヨハンは首を横に振った。忘却の彼方に追いやった可能性も否定できないが、そうであれば己の役割に〈星〉への啓蒙も含まれていそうなものだ、と。
 いま自分に知恵を授けているのは違うのかとカノンが問えば、ヨハンは傍観者の役目そのものではないと答えた。
 そう。単なる成り行きに過ぎないのだ。
 自分が、傍観者が記録するに値するものを、見せ続けられているあいだのみの特例。
 彼のみが持つ智は、師弟を装ったこの関係が解消される前に――対価として許容される範囲に限るとはいえ――ひとつでも多く聞き出しておかねばなるまいと思いを新たにした。いつ終わってもおかしくはない、そして二度目の無い、これきりの縁なのだ。



3

 旅に出てから季節は二巡りして、カノンたちは南の大陸の端だという岬まで辿りついた。
 ヨハンはここが〈星〉の知る大地の果てのひとつだと言う。
 三回ほど海を渡ってきたカノンは、すぐに堅牢な船体を脳裏に映す。潮になじみ深い人間であれば眼前に広がる青に挑みそうなものだ。
 向こうにたどり着けないわけを訊ねれば、尋常ならざる距離と、複雑な潮流が原因だとの答えが返ってくる。
 その周辺地域では、最果てには神が鎮座する場への入り口があり、生身の人間に到達することは許されていないのだとささやかれていた。
「此の海原の先は傍観者(我)も知らぬ」
 傍観者いわく〈星〉という素は肉体の分解を以て星河へ還り、やがて再び器と成って新たな命を宿す。なれば〈星〉の魂はおのずと命の死とともに息絶えて消失する。
 口承いわく人は死を以て分かれたのち、肉体は星河に還り、魂は星河に流れていく。たどりつく先は天の果て、海の果てにある、神の御座す場所。
 崖の下に視線を落とせば、岩肌に波が打ち付けている。
 カノンはぼんやりと、海に呑まれ藻屑と化した〈星〉のかけらが、陸に上がれずに行ったり来たりしている光景を思い浮かべた。
 


 カノンの知るうちで、もっとも暖かい冬であった。
 冬と呼んでいいのか疑問は残るが――。
 四つの石を用いて、天候を問わずに太陽と月の一巡をはかり、三十を一区切りとする。
 昼と夜それぞれの出番に合わせ、《陽》と《月》をたがい違いに蓄えて放つ、ふたつの小さな方解石。元素に反応して煌めきの増す日長石と、光沢が色を帯びる月長石のかけら。
 それの数からして、生まれ育った地ではまちがいなく冬と呼んでいた時期だった。
 長い陸路をゆき、何度か海を渡って、〈星〉の庭の端までたどり着いたカノンはそれまでの旅路を振り返る。
 洞窟を抜けて大地の端から船に乗った。西の海側から回り込み、大陸南部に上陸して、まずは宗教伝播の末端もとい集落が存在する限界を目指した。
 ずいぶんと遠くまで来たものだ。
 潮風に吹かれる髪は雪の純白を失って久しい。もしもカノンの記憶力が人並みであったならば、あの日々を忘却の彼方に無理やり押し込めて、そしらぬ顔で別人として生きていくことすら、この地では叶いそうである。
 あの山からからどんなに南方へ下っても、人々の価値観や慣習には、自分はここで暮らしてやっていけないだろうと感じさせるほどの差異はない。
 自然律の啓蒙と災禍期の周知といった、書や碑として残るたぐいの伝承は、各地で内容にほぼ相違がなかった。どこへ往けども、おとな達から聞かされた話、地下遺跡の壁や屋敷に保管されていた紙の束をカノンに連想させた。
 崇められている神に関してもおおむね同様だ。
 ハイリヒザルクから離れれば離れるほど、口伝えではなく書物によって共有されているのが珍しくなくなっていったのはなんとも言えぬ衝撃をカノンにもたらしたが、主たる神もとい善神の描写、それに付随する死生観の基軸自体はかえって奇妙なほどに振れ幅がない。
 枝葉や信仰の態度にばらつきはあっても、主神のおおまかな性質と、〈星〉の魂が死後その御許へ向かうといった見解は、人々におよそ相違なく常識として根づいている。
 他方、自然を司ると言い換えてもよい六柱への態度は風土を反映してかたちを変える。柱ごとの権能の違いや存在感の偏りがみられた。
 しかしそれでもカノンは、大本の信仰は各地共通していると感じていた。信心の核は自然への畏怖。世界の果ての向こうから人々を見守っているのが主たる神ならば、現世で恵みをもたらすのが従たる神の六柱。そして呼称と司る元素だけはいかなる場合でも変わらず、必ず六つの柱が在る。
 主たる神も六柱も信仰を定義づけたことばはそれぞれ、もとは全てが伝播の始まりを一にしているとみなすべきだろう。
 とある場所から広まっていったのか、何者かが各地を伝え歩いたのか。あるいは人ならざる存在……ヨハンよりも更に特異な力を有するようなものが教え示したのか。いずれにせよ各地で別個に発生したとは考えにくい。
 ただし例外としてカノンの生まれ故郷でのみ、六柱は意思あるものとして扱われていない。
 こと悪神においては、ハイリヒザルクとその他地域との違いが顕著だ。
 ヨハンの案内で洞窟を抜けた先では、悪しき神は邪悪の根源・喰鬼の祖であり、されど悪をじかに為したわけではない、漠然とした存在だった。
 海を渡った先では「わざわいの化身として存在そのものが自然秩序を乱している」と明言されるようになった。しかしあくまで邪神は人格めいたものを宿しておらず、定型の姿すら持たない。
 そもそもカノンは〝悪しき神〟の正体が虚構だと踏んでいた。
 五百年前、凄惨かつ理不尽な状況にある者は心を守るべく納得し、理解しようとして、ある者は元凶たる原因を排する夢を見て、災禍に理由を求めてなにかの仕業とした〈星〉の妄想。
 ハイリヒザルクの悪神は、さらに「喰鬼を従え、意思を以て〈星〉の命を奪った、非対称の平凡ならざる身体をもつもの」との設定が加えられて誕生したものだろうと、旅のはじめのうちは思っていた。似たように脚色を加えられた例が他にも出てくることを期待していたのだ。
 ところが現実はひとつも類例に遭遇できないばかりか、知れば知るほどハイリヒザルクの悪神の異質さが際立つ。

「ハイリヒザルクにだけ、本当に何かがいたのか」
 声変わりが始まっているせいか、カノンの発した音はすこし掠れた。
 海を望める小屋の外に放置されていた木の腰掛けを借りつつ、カノンは頭と尾をつまんで焼き魚をかじる。
「かたや災禍期に現れて、かたや災禍期に暴れた喰鬼の発生原因とされてるから、よその悪神に似た雰囲気があるだけで」
 師弟の手にあるのは節介な村人から押し付けられた白身魚である。最南端の浦里では旅人がよほど物珍しかったのか、ふたりを共同炊事場へ案内したうえに串まで貸してくれた。
 食事処のない村で裾分けはありがたかった。そうして、けさ捕ったばかりという鮮魚は下処理され火を通されて、カノンの腹へ収まるにいたっている。
 魚のえらの後ろあたりを食べると、なんともいえない苦みが舌に広がった。
「じゃあ仮に実在したとして、そうすると今度は情報が曖昧すぎる」
「言っておくが何らかの否定を期待しているならば応えられぬぞ」
 聞きようによっては煽るようなヨハンの言い回しだが、男に人をからかう才能が無いのは知っている。
「僕が確信してるのあいつが〝悪しき神〟なんかじゃなかったこと、その依り代なんかじゃなかったことだけだ。そこに至るまでのことがらは確かめる必要がある」
 カノンは静かに続ける。
「だから、何かがいるとしたらその正体を具体的に探らなくちゃいけなくなる。それでおまえはどう見てるのかと」
「であれば、お前と変わらぬ見解を持ちつつあると思うがな」
「〝悪しき神〟は暫定多数派の悪神おとぎばなしと何かが合わさってできた産物だって?」
 ヨハンは頷き、手もとに小さく星術の火を熾した。細い背骨でつながった頭と尾がじりじり炭と化す。
 魚の残骸だったものがはらりと崩れて、海かぜに流される。
「たしかに今までの情報を総合するとしっくりくるんだが、でも、だったら『両のかたちの違う体を持つ』なんてはっきりしない言い伝えにならなそうな気がする」
「其れも尤もだが〈星〉には不吉なるものを直に口にせず、そういった真似を避くきらいがある」
 脳裏に浮かんだのはすっかり血の気を失った神官の顔だ。ふた巡り前の冬、カノンが〝悪しき神〟の伝承をうたった際に見た光景。他の集落でも似たような場面に遭遇している。
 傍観者の言うように、拍子抜けするような事情が絡んでいるのかもしれない。凶行のみならず容姿もことばにする真似が憚られたとするならば、辻褄は合う。
「だとしても〝悪しき神〟の原型になったのは、いったいなんなんだ」
 串にずっと残っていた魚の最後のひとかじりを、カノンはろくに噛まずに飲みこんだ。
 迷信の餌食になったものは果たして何のいきものなのか。
 ヨハンとおなじく喰鬼を殊にひきつける体質の人間であれば、もしやすると喰鬼を操っているように人々の目に映るのかもしれないが、本人も早々に餌食となって誤解も解けるだろう。二足歩行の喰鬼だったのならば、外見の特徴として「角を生やしている」といった描写くらいは許されて後世に伝わっていそうなものである。
「都合よく考えるなら、体の片側が肥大化してるとか片腕が複数生えてるとか、それ以外はおおよそ人間と同じすがたで、高い知能をもった喰鬼ってことになるんだろう。ちなみに〈星〉と見分けがつかない喰鬼に遭遇したことは?」
「外観の話であれば答えは否ぞ」
「気配に関しては? 前に、なんとなくわかるって言ってたよな」
「我が感知するのはあれらが屍を渇望する欲の臭気であり、〈虚〉(しょくき)の匂いではない。食欲を制御できる屍喰らいを箱にでも隠してしまえば、我はその中身を看破できぬ」
 カノンは促されるままさかなの成れはてを差し出した。ヨハンが処理するのを尻目に、指先についた塩を払う。
「そんな、泳がない魚みたいな喰鬼なんて存在するのか」
 食肉衝動を一時的に抑える喰鬼はたまに遭遇するが、ひとの目を欺けるほどの理性を装うすがたは想像がつかなかった。
「さてな。あれらの知識は始まりより抱く智には含まれず、観測が全てぞ」
 知らないのであれば仕方ない。傍観者の記録からの推測すら生じない場合は、続けても無駄である。カノンはその話題を終わらせ本筋へ戻ろうとした――が。
 なんとなく。
 駄目もと半分、期待半分。カノンはヨハン自身に訊ねてみる。
「ひとを殺さず、屍を喰らわずにいられる喰鬼もいるのか。ヨハンおまえ自身はどう思う」
 やや間を置いて、彼は口を開く。
「〈星〉との接触を断ちつつ〈星〉の真似事を続ければ、やがて己をそれと錯覚し、或いは殺めずにいられるのやもしれぬ」



 最南端までの行程とは別経路で北上して、何か所目かの町での出来事である。
「トスカルアへ行かれてみてはどうでしょう?」
 食事処兼酒場のカウンター席で、となりの客が急に話へ割り込んできた。
 店内は顔を赤らめた者や、陽気に騒ぎ立てる者で席が埋まっていた。どうせ聞かれやしないだろうと、ヨハンと集めたばかりの情報について意見を交わしていたのだ。もちろん直接的な用語の使用は避けて話をしていたが、どうやら酒に呑まれないばかりか、聞き耳を立てて内容を理解する人間もいたらしい。
 カノンはすぐさま最低限の表情を繕う。柔和な顔立ちの若い男は「突然すみません」とばつの悪そうに眉を下げて笑った。
「言い伝えとか、昔のできごとについてのお話が聞こえてきたので。トスカルアに住んでいるアルバローサのかたに話を聞いてみるのもきっと面白いですよ」
 無視すべきかどうか一瞬迷う。先にヨハンが応えた。
「『アルバローサ』とは?」
「ずばり〝英雄〟の子孫です」
 男の滑舌はなめらかだったが、頬はすっかり紅潮していた。
 酒精に浮かされている可能性が捨てきれず、カノンはひとまず口を噤んで事の成り行きを見守った。酔った人間は扱いが面倒である。こういった手合いはなんともいえぬ威圧感を醸すヨハンに任せるに限る。支離滅裂な言いがかりをつけられず会話が進む。
 ――男の話を総合すると、アルバローサとは災禍期に活躍した英雄を祖とする鍛冶職人の家系であった。
「血を大事にされている一族ですので、ご先祖にまつわる資料も残ってるかと」
「郷の人間でないという割に随分と詳しい様だ」
「噂好きの旅好きですからねえ」
 ヨハンが最後まで話に付き合ったのは、彼の記録に鍛冶屋一族の名がなかったからだろう。傍観者は個の〈星〉にこだわらず、名前を以て区別をしながら記さない。
「耳を傾ける価値はあった」
「お役に立てたのなら幸いです」
 一方的に喋り倒して満足したらしい男が店を出たあと、今度こそ誰もこちらを意に留めていないのを確認してから、カノンは「アルバローサの人間がいるっていう町に寄りたい」と口火を切った。
 喰鬼を討ち村を守った人間の子孫が代々引き継いでいたあの手記という存在は、カノンにも馴染みがある。
 〈星〉の主観に基づく文書でも、書かれた時代が古ければ古いほど重宝するものだ。
 アルバローサの〝英雄〟とやらの日記や古い伝記が残っていればそれを閲覧できないだろうか。
「とはいっても先に、話が本当なのか確かめなきゃならないか」
「トスカルアはいずれ訪れる予定だった。どうせ足を運ぶのであれば、一杯食わされたとしても然程構うまい」
 カノンは中身が残っているコップを手元に寄せた。ぬるまった水を飲み干す。
「経路を変更し到着を早めるとしよう」
「ここでの聞き込みもあらかた終わったしな。あした出発する」
「お前のしたいように」



 ――かつて喰鬼の群れに立ち向かった、守り人の末裔に引き継がれる手記は、内容を伝えるよりも保存が重視されていたように思う。いたずらに触って傷めないよう、子がふれることは禁じられていた。
 駄目と言いつけられればそれを破りたくなるのが子供のさがである。夫婦が不在の際にカノンは中を盗み見た。まずはただ一枚の図として、すべての頁を覚えた。
 完全な解読にこそ詩の才能や別の知識が必要だったが、まもなくして文字が読めるようになると、おおよその意味は理解できた。当時のカノンは口数が少なかっただけで考えることはずいぶん得意な子どもだった。
『ただ、守りたかったのに』
 古びたにおいが染みついた手記は、書き手の後悔から始まっていた。
 災禍期のようすを綴った手記の内容は、元素が根源の知識や〈星〉の呼称をふくめ得難い知識をカノンにもたらした。その点では有用性があったが、後世へ遺すべきものかというと首を傾げる。
 それは聞き苦しい懺悔であった。
 誰が聞かれるまでもなく、「何か」を守り損ねたという過ちをみずから記し、残すことによって罰としている。実際にひとから石を投げつけられたわけではない。あまつさえそこに贖いと救いを見出している。
 手記の中身は自己満足そのもの。それでも数百年ものあいだ喪失を免れていたのは、末裔たちが書き手の遺志を汲んだためであるが、最期は実にあっけなかった。火を放たれた家もろとも燃えて終いだった。
 かつて、焼け跡をひそかに訪れたカノンは、夫婦らのこころざしを慮って探そうと試みたものの、収納されていた本棚の残骸さえ判別に困難を極めた。

 ただし今でも、記憶の書庫には焦げ目ひとつない状態で現存している。
 見知らぬだれかの罪の証明に、カノンは加担し続けている。



 《月》を放つ星魔石のあかりに照らされ、頬の肌がいっそう白く透けている。
 ヨハンの傍らに身を横たえる星の子は小さく寝息をたてていた。うまく眠りに就けたらしい。 
 トスカルアへの近道として入った森に露営し、ヨハンは火を熾さずにただ座って見張りの番をしていた。野党はこちらを見つけられず、獣も傍観者に襲いかかってくる心配はなく、喰鬼の姿を捉えるには月光で十分である。
 周囲に気配がないのを確かめて、再びカノンを見やる。抱え込むように握られているナイフの、乳白色した柄がぼんやりと闇に浮かびあがっていた。
 目覚めた直後なら尚のこと星術で切り裂いたほうが早く、確実に怯ませられる。わかっていても、しかし武器を準備しておかねば落ち着かないそうだ。自分がそばにいる時くらい楽にできないものかと、つい考えてしまう。
 ん、と短くうなって、カノンが身じろぎした。
 背を少し丸めたようだ。灯りの明るさをわずかに上げて顔を覗き込む。月夜の闇に目を凝らすと、唇はきつく結ばれ、眉根は険しく寄せられている。おおかた夢を見ているに違いなかった。
 風化を知らぬ過去。うつつと見紛う精巧な記憶。癒えない疵。……覚醒している間であればまだしも、彼の眠りを妨げずにヨハンがしてやれることはない。眉間の皺をのばそうと指先が触れた瞬間、紅い双眸と目が合うだろう。魘されていようが体は休まるから起こさないでくれと、本人に念押しされている。
 思わず伸ばした手はやり場をなくして、むなしく空を掴んだ。

 ハイリヒザルクの星々は自身の言葉を決して聞き入れないから、通常ならば理解を強いるのは不可能だと少年は割り切っていた。
 しかし悪神がもし本当にいるのであれば、話は別だという。
 目の前に、それも依り代を介さず顕現したあかつきには、かつて排した子は〝悪しき神〟と無関係であったのだと、さすがの村人も真実を受け入れざるを得ない。傍観者の正体が邪神ならばむしろ幸いである。仮に悪神が〈星〉の敵対者だとしても、最初の犠牲者にならないよう立ち回ればいい。
 そう、カノンはなんでもないように言ってのけた。
 しまいにはもう一度ハイリヒザルクを訪れて、ともに遺跡の奥まで探索すれば――傍観者を〝悪しき神〟のなれの果てだとは考えていないようであるが――ヨハンに思い出すこともあるのだろうかと口にする始末である。
 直ちにではないが、カノンはいつかハイリヒザルクへ戻るつもりでいるようだった。忘却の彼方に追いやりたい記憶など存在し得ないのであるから、惨劇の舞台袖に立つことにためらいが無いのだ。
 あるいはたとえ傷口が抉れようとも、それすら気がつかないのだろう。

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