錫箔を貼った硝子の向こうから、神妙な顔をした少女がこちらを見つめている。
耳よりも高い位置でふたつに結わえた髪。首元を飾るリボン。生地の種類は判別できないが、釦と袖口の両脇にフリルのあしらわれたブラウスと、こまやかな刺繍の施されたベスト。腿に着けたナイフを隠すパニエを覆う、ぬめるような光沢をもつ布が膝下までとどいているスカート。薄手の――タイツというらしい履き物の濃灰が垣間見えた先には、編み上げの長革靴。
傍らに立つ商人の女は、カノンの姿を見て破顔し、手を叩いた。
「いいじゃないの! 言ったとおりでしょ、女のコの服も似合うって」
「はあ」
「なぁにその返事。もしかして嫌だった?」
「べつに」
彼女のことばを世辞とも断定しきれずに、カノンはまともな反応に窮する。
傍観者は押し黙ったままだ。
全身のいろあいは髪と目に合わせたというだけあって、赤を基調とした衣服にちぐはぐな印象は受けない。村を出てからというもの少女に間違われてばかりであるので、ひとから見てもおそらく不格好ではない。
だが、自明なのは所詮その程度まである。客観的になにが似合っているのかなど、カノンにわかるはずもないのであった。
聖堂を有する町を発ち、およそ十四の夜を超えて、カノンらは大地の端に辿りついた。
海と、それを渡る船が停泊する港である。
小規模――海も港もカノンは目にするのが初めてなので、あくまでヨハンの評である――だが、船は、一週間に一度は出ているとのことだ。
この港は、北方から海を渡って、ハイリヒザルクよりもさらに南方の地域へ向かう折、補給地として立ち寄られる場所らしい。そして回漕ついでに旅人を乗せてくれる船が、波さえ落ち着けば二日後の出航を予定していた。
カノンらは西の海側から回り込み、ハイリヒザルクをいだく山々を超え、南のまちへ向かう算段だった。数日であればひとまずは待ってみようと、カノンらは港町で時間をつぶすことにした。
遠くにいっさいの影も認められず、果てしなく続くようなわたつみ。とにもかくにも新鮮だった。カノンは昼食をおざなりに胃袋へ詰め込んだのち、さっそく海沿いを散策した。
森も山も民家もない、水と空の境目。延々と生まれては消える白いうねり。独特(いそ)の匂い。波音。黝い水に浮かぶ、車輪のない乗りもの。
隣を歩くヨハンは、陸と海、潮の流れ、〈星〉が踏破している地、もとい大陸と島の話をした。
前に描いてみせられた地図を脳内に広げながら、カノンは耳を傾ける。
ときおり、山間に吹き込む寒風とは異なる、つめたく刺すような風が吹きつけた。
外気にふれている頬の肌が冷えきってずきずきと痛みだした頃、カノンはようやく町の陸側へと戻りはじめた。
その道中、港から近い通りを歩いている最中だった。
「もしもし、そこの可愛らしいお嬢さん――にもなれそうな! 桜のつぼみ色した髪の子!」
なにやら文章がぐだぐだな、女性の呼び声が後方から聞こえてきた。
……実物を見たことはないが、「さくら」がどういった色なのか、カノンはなんとなく知っている。
海とは違い、元素や災禍期の伝承郡には登場しないものの、草花に関する文章で読んだことがあった。ひとの魂をさらい、根の籠に閉じ込めてしまう樹。もといそれが咲かせる、ほんのり染まった頬を思わせるいろの花。
屋敷の書斎で発見した書物の題名は「神の夜語り」。
魂うんぬんは明らかにでたらめであるが、内容はすべてが空想ではないようだった。村にもある植物の記述は、カノンが実際にふれて得た知識とあらかた同じである。外観や生息環境の情報は、おおよそ創作されたものではない。
つまるところカノンは、女が呼んでいるのは自分だということを自力で悟ってしまった。
胡乱さの滲む言葉は聞き流したいところであるが、下手に無視をして、背後から襲われてはたまらない。カノンはしぶしぶ振り返る。
声をかけてきたのは、薔薇柄の緻密な刺繍がほどこされた外套を肩にかけた女だった。
落ち葉を思わせるいろの髪。歳は三十代前半、容姿はヨハンよりも若い。すくなくとも外見は、小奇麗な格好をした正気の人間に見えた。
「いきなり引き止めちゃってごめんなさいね」
「なにか用ですか」
たとえば客引きの場合は、用が毛頭無いわけであるので、素の口調で対応するが、現時点ではどういった立場の人間なのかわかりかねる。ひとまずは敬語で対応した。
「ええ、そう、かわいいあなたに用があるの」
女は腰を屈めてカノンと目線を合わせると、にこりとほほ笑んだ。口角がくっきりと持ち上がり、冴え冴えしい笑顔である。
「単刀直入に言っちゃうわ。私が仕入れた服を着てみない?」
「断る」
カノンはそっけなく即答した。
ヨハン曰く仮面を脱ぎ捨てるまであっという間だった。
「でも、いま着てるその上着も下穿きも、ちょっとだぼついてるんじゃなくって?」
「他をあたってくれ」
「ちょっとだけよ」
しかし女は、カノンの言葉をまともに取り合っていないかのように、変わらぬ調子で会話を続けようとする。
「私、星魔石装具を扱うのが本業なのだけど、何着かおしゃれな服もそろえてるの。いつかこれを着た子を見てみたいって」
「僕じゃなくていいだろ」
「だめよ。だってあなた、体が華奢なのよね。今はまだ大丈夫かもしれないけど、近いうちに段々、大半の男の子用の服が体に合わなくなってくるわ。気にならなくなるのはきっと成人してから少し経った頃」
それがなんだというのだと、カノンは無言で応える。
女はなぜか得意げな表情をした。
「だから、私の趣味とあなたのために、ぜひ、女の子向けの服を勧めたいのよ。なんだったら買わなくたっていいわ!」
なにがそんなに彼女を熱心にさせるのか。カノンがもう一度はっきり断りの意思表示をしても引かず、根気強く粘る女だった。
その後の詳細は省くが、カノンは結果的に「いっそ話に応じてやったほうが楽なのでは」という結論に至った。
女――グレーテと名乗った――からは、村人らとはまた別の手合いの、厄介なにおいがした。それはもう、出航までのあいだに宿まで押しかけてきそうな。
しかし危急の状況でもなく、手荒な方法で追い払ってしまえば、港まで噂が伝わり、乗船を断られるおそれもあった。
いっさい口を挟まなかったヨハンは、彼女を危険な〈星〉だと判断していないようでもある。カノンから見ても、身のこなしや隙の有無は素人のそれだ。
女子向けだという衣服を着ることに抵抗はない。この時期にスカートは素足で履かないし、子供の服など似たり寄ったりだ。
そんなわけで、非常に不本意きわまりない選択であったが、最終的にカノンは首を縦に振った。
結果、このありさまだ。
どうして自分は他人の宿泊部屋でされるがまま、衣服に腕を通しているのだろうか。
いや、経緯はよくわかっている。カノンはひそかに短く息を吐いた。困惑の原因は、女子用という服がやたら上等であったことと、グレーテの熱の入りようが想像のさらに上をいったことだ。
「外套はどれにしましょうかしら。真紅も葡萄色もちょっとまだ大人っぽすぎるし、かといっていちご色はあなたのお顔には甘すぎるわね。うん、これなんかどう?」
幼児でも詰め込むのかという大きさの、袋だか鞄だかわからない荷から、グレーテは紫みがかった茶色の外套を取り出す。ファーの素材はわかった。白兎の毛だろう。
なお彼女が滞在している部屋は町一番の特上室であり、ご丁寧に姿見が設えられていた。外からの来訪者が持ち込んだのだろう、ヨハン曰く、大きさのわりに珍しく、鏡はすずと硝子を使用したものである。
「ぱっと見ると、すこし地味に思うでしょう。でもほら、裏地はばらの色なの。脱ぎ着するときに見えるのがかわいくってよ」
これを着けたらいい加減に満足するだろうか。カノンは差し出されたクロークを羽織った。
「ああ、このグレーテの目に狂いはなかったわ。とっても素敵! 最高!」
「最高……? とりあえず僕は女子じゃないぞ」
「種類分けは便宜上のものに過ぎないわ。服は、着たいものならなんでもいいのよ」
それは極論ではないのかとカノンが言えば、グレーテはカノンの傍らに膝をつき、己と高さがと縮まった目線で鏡を覗いた。
「もちろん、大きさや着心地の問題はまた別にあるけど、でも少なくとも、この格好はいろんな意味であなたにぴったりよ」
「たしかに袖の長さも、肩とか腰まわりの大きさもちょうどいいみたいだが」
「物騒な武器だって隠し放題よ」
「上着を脱いでも隠せるのは便利だ」
「そうでしょう」
「でもけっきょく、単に『服が』おまえの趣味なんじゃないのか。着てる人間はじっさいどうでもいい」
「あら、疑ってるの? お世辞でもなく本当のことよ。なんだったらもう少し大きくなってからでも女のコの服を着られそう。ねえ、あなたもそう思うでしょう?」
グレーテは、佇立する姿が鏡の奥にうつっている男に問いかけた。
長らくだんまりであったヨハンは、「我には判断しかねる。少女と見紛えども、顔立ちに甘さは見られぬ」と一度は答えた。しかし参考にできるような記録こそあったのか、参照するまでもなかったのか、言葉を続ける。
「ゆえに斯様な衣に身を包むのであれば、髪の結い方は其のようなものが適当であろう。且つ、其れは馴染んでいると評価できる」
「そう、そうよ! わかってるわねお師匠さん。なにもせず流すのもいいんだけど、ゆるく丸く癖をつけてから二つに束ねるのが肝なの。慣れれば自分でも綺麗にできるようになるから、ぜひ挑戦してみて頂戴ね」
「僕が、こういう格好をするのが前提か」
「だって気に入ったでしょう?」
「嫌じゃないとしか思ってない」
照れ隠しでもなく、ありのままを実にすげなく述べているつもりなのだが、ひとの話を聞かない人間たるグレーテは、小さく跳ねるように立ち上がった。
「いいわ、いま着てるもの、ぜんぶあげちゃう! あとはそうね、ブラウスとスカートだけならもう一着ずつ持っていける?」
「間違いなく金も足りないし、代わりに出せるものもないぞ」
カノンは鏡越しではなく、じかに横の女を見た。
しっかりとした縫製に凝った装飾。この衣類一式となればそれなりに値が張るに違いなかった。ましてや彼女は行商人だという。閉じられた集落での、形式的な一面を持つ売買とは訳が違う。
部屋に入ってそれを見せられたときから、持ち合わせの不足を口実に断ろうと考えていた。そういった理由であれば、さすがの彼女も引き下がるだろうと。
「あげると言ったのだけど」
グレーテはきょとんとしたのち、軽く笑った。出会った際にも見た、なぜか得意げなあのしぐさである。
「つまり、いわゆるタダ!」
「もう勝手に脱ぐからな」
「まって本当よ? ええ、でも見返りがないとかえって不安だというなら、そうね、行く先々でひとこと宣伝してくれればいいわ。『グレーテ・レガルマータの扱う星魔石のアクセサリーは良いものだ』って」
「うそを言いふらせってか」
「ああん、どんどん素っ気なくなっていかないで頂戴。じゃあ実際に見て、判断してくれて構わないわ。……そういう商法じゃないのよ、ね?」
「じゃあ聞くが、僕がただで服をゆずり受けて、いったいなんの得がある」
「心が満たされるわ」
「なにを言ってるんだ」
「わたしは『好きな服をたのしんで着ている子』っていう存在が大好きなの。それが大前提のうえで、更に、きれいな子がきれいな服を着てるって思っただけで幸福感に満たされるわ!」
思わず、単純計算では兄さんどころか爺さんであった男に目配せしそうになった。
正直すぐにでも会話を切りたいところであったが、カノンはぐっと堪える。
「そういってるわりに、服飾のあつかいは本業じゃない」
「星魔石のあきないが家業なのよ。それを継いだことも誇りに思ってるわ。あとはそうね、服の商売を主に据えたらさすがに食べていけなくなっちゃうもの」
グレーテの感覚はまるで未知であったが、後半のその説明には妙に説得力があった。
そしてどうにも、彼女のことばに裏を感じ取れないでいた。
今度こそ、カノンはヨハンのほうを見やる。
「星魔石の質なんて、ぼんやりとしかわからないんだが……ヨハン、おまえは」
ヨハンは浅くうなずく。
「真贋の見極め程度は取るに足りぬ。比較は容易く、優れた補助道具としての評価は幾らでも出来よう」
ならば試しに、装具を見るくらいはしてみてもいいのかもしれない。諸々の判断は、それからでも間に合うように思えてきた。
我ながら露骨だなと思うほどに、うんざりとした調子で、カノンは「だったら、少しだけなら見てもいい」とこたえた。
「もらってくれる気になったのね! うれしいわ、ふふ、こうなったらとっておきの品々をお見せしなくっちゃ」
弾けるような笑顔と、高く浮ついた声。グレーテは大げさにはしゃぐ。
彼女はちょっと待っててねと言い、例の荷のさらに隣に並べてあった、革製の鞄のなかをあさりはじめた。
貰うとはまだ一言もいっていないのだが、無償で服が手にはいれば経費の節約につながるし、この面倒くさい女性に譲歩してやってもいいかとカノンは半ば諦めた。
「違和感は生じぬであろう、とは思っていたが」
カノンがグレーテから解放――されていると言っていいものか――されると、間を置かずしてヨハンが背後に立つ。さすがにもう、反射的に身構えることはない。
「男児向けの適当な衣服より、よほど合っている」
「上等みたいだから、体のかたちにより合うようにできてるだろうな」
「外見から受ける印象を含めての話だ」
カノンは後ろを振り返った。
見てくれの雰囲気? いったいなんの記録と比べて、その判断を下しているのだろう。部外者がいる場で訊ねるわけにもいかず、カノンは「おまえはこれが、僕に似合ってるようにかんじるのか」と聞きかえしてやった。
ヨハンは少し考えるそぶりをしてから口を開く。
「お前の髪色は、可憐なものの連想を誘う」
「可憐って、たとえばどういう」
「形容としてよく使われるのは『少女』であろうな」
少女……カノンにとっての「少女」はもっぱらひとりであるが、自分とはあまりにも年齢が異なる。村のこどもは男女ともにさして変わらないような容貌であったように思うし、参考にならなかった。
カノンは再び鏡と向かい合い、その場でくるりと回ってみる。
いまの格好の、顔立ちに対する違和感の無さは存外わるくないと感じている。けれどもやはり、それ以上でも以下でもない。
ただ――彩のある生地、いささか華美な輪郭(シルエット)や動くつど揺れる裾は、もうしばらく眺めていても飽かなそうである。
[莟]