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 〈星〉の屍を喰らう異形、喰鬼。人間に害為す怪物と血なまぐさい戦いを繰り広げた者達を、喰鬼討伐団の本部会館で迎えたのは――湯気たちのぼる、焼き立てのパンだった。

 仕事から解放されたばかりのウェズは肚裏でうなった。
 香ばしくあたたかなにおいには、体力を消耗した身体の食欲を容赦なく煽る。
 半ば寒冷地であるレシュア周辺地域でもよく育つ麦から作られたそれは、パリッと焼き上がった表面とふっくらとした中身の合わせ技が絶妙である。黒パンと違い、そのままかぶりつくことができるのが良い。いや、黒パンことライ麦パンが劣っているというわけではなく、あちらはあちらで、薄切りにしたものにハムやチーズをのせて食べるとこれまた――。
「どうした」
 ――後ろからユクシルに声をかけられ、ウェズは我に返る。
 玄関広間の入り口ですっかり立ち止まってしまっていた己を恥じた。腹を減らしているにしても、あらぬ方向に思考を飛ばすのは流石にいただけない。
「どこか怪我でもしたか」
「いや。ちょっと考え事しちまってただけだ」
「ならいいが」
 肩越しに苦笑してみせれば、夜色の目が何か言いたげないろを……帯びたように見えたのは気のせいか。それ以上は何も言わず、ユクシルはウェズの脇を抜けて行った。
 休憩室に設えられた夜食の提供所へと向かう足取りは、疲労など微塵も感じさせず、平素と変わらず音は無くしっかりとしたものだ。仮にも近場で別件の喰鬼討伐をこなしたのち、合流してウェズの担当案件を手伝ったはずの男である。ことに夜間において疲れ知らずなのは、彼が〈静寂〉の魔であることの証左なのだろう。
 魔は生命維持に食物の摂取が必要ないというが、ユクシルはよく食事をしている。「食べたいと感じるのは確かだ」とは本人談だ。いきものの構造的には空腹感など生じないように思えて、しかし欲は覚えるというのだから、不思議なものである。その感覚はウェズには想像し難い。もしかしたら彼がそれと呼んでいるものは、人間にとっての食欲と少し中身の異なるものなのかもしれなかった。
 ところで食欲といえば、そう、ウェズの胃袋は現在、かなり強い度合で食物を要求してきている。
 その空腹はどう足掻いても誤魔化せず、否定できないものである。加えて、無事に帰宅するという任務と、自室作業台の掃除や就寝がための諸々の行為という業務がこの後ウェズを待ち構えていた。それらを考えれば職場の好意を素直に受け取るのが賢明だ。
 だがしかし、ずばり夜食である。深夜に、食事をするのである。それは胃に負担がかかるだの贅肉になりやすいだのと聞いている。
 何より食事とは朝昼晩に3回とるものであり、とりたいものであり、それ以外の時間にはとらないものだ。そういった、やけに強い認識が、罪悪感のようなものを以て夜食を拒否せんとするのだ。
 他人の邪魔にならないようにと玄関口から離れたウェズだが、その分、扉の開け放たれた休憩室との距離が詰まる。
 籠に積み上げられた、美味しい罪の意識の塊。小さい物ならひとつくらい食べてしまってもいいだろうか、いや、そのような「少しだけ」という思考が危険なのだ。
 駄目だ、この場を去ろう。自分が無事帰還したことは上司に伝わっているうえ、今回は他の同行者が任務報告の役を引き受けている。そうだ一刻も早く。
 たかが夜食、されど夜食。
 ウェズはひとり心中で呻き、けれども理性を奮わせ己に言い聞かせ、踵を返そうとした。
 ところがその折、丁度運悪く。飴色がかった金色の頭と、その手元にあるものが目に入った。入ってしまった。


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 面倒くさい。セスタにとっての、定期的にひとりで摂る食事という行為を一言で表すのならば、まさにそれに尽きる。
 「大抵の人間は一日に2、3回食物を摂取しなければならない生物である」「ただ食べれば済むというわけではなく〝それなりの〟食事内容であることが望ましい」という特徴、変えようのない仕様が非常に鬱陶しい。何故、摂取量を、頻度を、栄養内容を考えなければ、いずれ健康を損なうのが定めなのか。不便も甚だしい話である。
 裏を返せば、自分のしたいように食べる食事は、セスタにとって厭わしくないともいえた。身内と気ままに飲み食いするのはむしろ好きだとまで断言できよう。
 食事と呼ばれる行為自体が煩わしいのではない。美味だという感覚はよく知っている。美味しいと感じるものを、好きな時に、好きなように食べたいというだけである。
 だから現在、セスタの顔が上機嫌に綻んでいるのも、なんらおかしくないのであった。
 休憩所の席に座るセスタの前には、ふんわりしっとりの生地にかろやかなかたさを身に纏うパンと、こぢんまりとした小型のボウル皿が並べられている。木製の器の中は、黄色みがかった柔くなめらかな乳白色のクリームが、その容積を満たしていた。
 これからその口いっぱいに広がるであろう味に、期待のまなざしは、きらめくこがねで縁取った碧玉が如しである。
 セスタは利き手に持ったスプーンで濃厚なそれをたっぷりと掬う。卵黄と油、酢と辛子を混ぜた、万能の調味料にして夢のソース。右手に構えたパンの切り口に惜しげもなく塗りつければ完成だ。セスタは口角のゆるんだ口を大きく開け、躊躇なくかぶりついた。
「んーーー」
 喉の、いや胃の奥から声が漏れる。味覚を占領する幸福感に、つい数十分前まで怪物を屠っていた四肢の先までじんわり浸る。
 程よい酸味の濃いとろとろと、しっかり食欲を満たしてくれるぱりぱりふわふわが合わさった、称賛に値するたべもの。やはり美味しいものとは良いものだ。至極当然であるが、素晴らしい事柄のすばらしさは何度でも確かめてしまうのが摂理である。食事とは常にこの至福を享受できる行為であるべきだ。毎回こうであれば、食堂で義務的にとる時間も価値を持つというものを。
 詮無きことを考えつつ、セスタはクリームを同じようにパンに塗った。
 二度目なので少し量が足りないだろうか。スプーンに補充しようかと思ったところで、ふいに、視界におなじみの姿が映った。
 碌に見ずとも身内であれば足元で判別できる。ウェズだ。ちらりと目線だけを動かして伺えば、ウェズは物申したいと言わんばかりの顔で、しかし黙ってこちらを見ていた。
 言いたくなったら言う、というより言わずにはいられないたちであり、自分には遠慮をしない男が柄にもなく口を噤んでいる。少々笑いを誘う珍しいすがたである。
 妙な表情の友人を尻目にセスタは、もはや手間なので、重たく粘性の高い液体の中へと直接パンを潜らせた。
 そしてそれを口へ運べば――〝物申したい顔〟がたちまちに驚愕で塗りつぶされた。
「なっ、……てめえ、何やってんだ」
 馴染み無きものは長くもたないものらしい。沈黙は儚い命に終わり、ウェズの表情はあざやかに“物申す顔”へと変化する。
 随分と不思議な質問をしてくるものだ。何をしているかなど、双眸をかっ開くまでもなく一目瞭然だろう。
「パンを食べてるだけだけど。わかんないの? 大丈夫? 早く帰って寝たら?」
 くちびるについたクリームを指で拭いつつ、可愛げのかけらもない調子でセスタは答えた。
 昼間は本業の雑務や家事をこなし、陽が沈んでからは危険な喰鬼討伐に臨んだウェズ。さすがに相当な疲労が溜まっていることだろう。今はもう、朧月が夜天の頂きに差し掛かったような時刻だ。どうせ明日も規則正しい時間に起きるのだから、早めに帰宅しその身を休ませてほしい。何かあってからでは遅い。
 ウェズは顔を顰め、不快感とも苛立ちともとれる感情を露骨に示してくる。
「何つけて食べてるんだ、それ」
「これ? マヨネーズ」
「おかしいだろ……!」
 大股で歩をすすめ距離を詰めてきたウェズは、机を挟んで目の前に立つや否や、吠えるように言葉を吐いた。
「マヨネーズは魚とか野菜に使うもんであって、パンにかけるどころか直につけるもんじゃねえ」
「でも美味しいよ」
「美味けりゃなんでもいいわけないだろ」
「いいでしょ別に」
「とにかくパンにマヨネーズは間違ってる」
 〝かくあるべし〟に多少は忠実であろうとするきらいのある、ウェズらしい言い分だ。
 だがセスタには、守ったところで得はなく、制限される不利益を被るだけのものに従う必要性は微塵も理解できない。理解を試みる気も型だけ倣う気も皆無である。
 ゆえにセスタは、ウェズのやかましい口出しを右から左に流そうとした。しかしそう簡単にあしらわせないのが、ウェールズファルツという人間の魅力もとい狡猾なところなのだ。
「しかもその量。駄目だそんなん」
「なんで」
「健康に悪いだろ!」
 思わず、パンをクリームの小池へ沈めたところで手が止まった。
「おまけにもう深夜だぞ? 普通より消化がうまくいかなくて次の日に響くかもしれねえし、そもそも油の摂りすぎは体に悪い食事の代表だろうが。大げさかもしれねえが、これをきっかけに体調でも崩したらどうするんだよ。しかも仕事だって、万全の状態で臨まなきゃ命の問題に直結しかねない」
 それをオマエが言うの!? と、危うくセスタは叫びそうになった。
 鍛冶職人でありながら喰鬼討伐団員を兼業している男が、曰くおかしい・いけないという食事をしているだけの者を案じるなど、筋が通っていないにも程があるだろう。
 鍛冶と喰鬼の対応、どちらも特に体力勝負であり、集中力の途切れが大怪我に繋がりやすい仕事だ。その両者を兼ねて為している、正気の沙汰ではない人間に健康を心配されるというのは実に心外である。
 己の健康を労れ、と口酸っぱく言ってやりたいのはむしろこちらのほうだ。ウェズには拳のひとつやふたつや三つや四つ、喰らわせてやりたくなる。
「隠れ体力馬鹿にしたって限度が……」
「何か言ったか?」
「でこぽんは口うるさいなーって。美味しいものを食べたい時に食べて何が悪いのさ」
「てめえ今おれの話聞いてたのか?」
 ――ところで健康といえば、そう、健康な人間は大抵の場合、体力を消費すればするほど腹が空く。ウェズは今のところ健康であり、今日一日散々体力を消耗して今ここに居る。
 すこやかな生命維持に欠かせない、活力の源の取り入れが必要である事を報せているのが、空腹もとい食欲というものだ。
「わかったわかった。今度はちゃんと聞いてあげるから、とりあえず座ったら?」
「最初から聞けよ……」
 セスタは軽く首を傾げ、小憎たらしい言葉を並べてウェズに座るよう促した。癪に障るような言い回しをしても、ウェズは素直に向かいの席に着いてくれる。
 相も変わらずひとが良い。何千回何万回思った事をまた性懲りもなく思い、密かに称賛する。
 お人好しが過ぎるのでいつか悪人に騙されやしないかという不安もあるにはあるのだが、どうせ持ち前の優れた能力やら何やらで乗り越えてしまうのだろうし、まずその前に自分が悪の芽を潰してみせる。
「ウェズ。ちょっと口開けてみて」
「は?」
 内心では良くも悪くも健気な事を考える一方、セスタは予備動作もなく身を乗り出した。そして目にもとまらぬ素早さで、卵黄と油の混合物を纏ったパンをウェズの口に突っ込んだのだった。

 気を利かせたつもりなのだろう、ユクシルが2人の周囲の《月》の濃度を高めて騒がしさを緩和させるまで、残りあと数秒。

[憂心で腹は満たされぬ]

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