序章



 眼窩に嵌め込まれた硝子は、血潮をそそいだ薄氷の器のようだった。
 長い白髪には黒く固まった液体が絡みつき、腐った土と鉄のにおいのする破片が身体中にへばりついている。しかしそれでもなお子供は、血の海の中で、鋭利に研がれた刃を携えているが如く、凛とそこに在った。
 何があったのかと尋ねる。
 声変わりする前の、透き通った声が男の鼓膜を震わせた。
「おぞましくて馬鹿げた儀式だ」
 広間の床から天井まで余す所なく飛散しているのは、儀式を行った人間達の成れの果てである。
 少なくとも自分にとってはな、と付け加えられなければ、男は子供の狂気を疑っただろう。肉塊らを偲んでいるのならば、悲哀の色も見せずに愚かだったと一蹴するまい。
 この子供には、悲嘆も絶望も一切窺えない。
 男はなにも言わず、石の床に腰を下ろしている少年を見つめる。
 子供はやがて、少女と見紛うような端正なつくりの顔に、不審の念をにじませた。
「おまえ、なんでこんなところにいるんだ」
 男は誠実に応えた。
「この地で行われる〈星〉達の希覯なる行いは、観るべきであったが故に」
 はぐらかしたのではなく、正直な答えである。
 ただ、そうとはいえども多少は訊き返されるだろうと踏んでいた。的を射ない返答であるには変わりないからだ。
 ところが子供はあっさりと神妙な顔つきになり、そうかと応えるだけだった。質問は無く、これで終いだと言うように立ち上がる。
「今の答えで足りるのか」
「まさか。どこで儀式のこと知った。なんで人間を〈星〉と呼べるんだ。疑問だらけだ。でも、人間を〈星〉だなんて呼ぶやつが、ただのこどもにくわしく話すわけがない。おまえが関係ないやつだってわかっただけでいい」
 子供は手の甲で頬の汚れを拭いながら、素っ気なく言い放つ。いっそ独り言のようである。
 警戒しているのではなく関心を失ったということだろうか。この状況で頼りたげにする素振りも見せないとは、少々奇特な〈星〉だ。
 事のついでだ。これも多少は観ておくべきだろう。
 子供にかけらでも時間を与えれば、脇をすり抜けてこの場を去ってしまいそうであった。引き留めるべく、男は適当に問いを投げかけた。
「何故〈星〉の呼称を存知している」
「偶然だ」
「では仮に我が『関係のある者』であったならば、如何していた」
 子供は僅かに目を伏せた。
「退けるだけだ」
 刹那、のぞいたのは憎悪の焔。しかしすぐさま他の激情と区別がつかなくなる。強い意志の存在を知らしめる、鮮烈なあかの色彩に紛れていった。
 それはあくまでも、己のものだと言わんばかりだ。
 未熟で華奢な身体に、烈火のごとき憎しみを抱えている子供。死屍累々の光景を目の当たりにしても、恐らくどこまでも正気で、そしてなにものにも縋るような真似はしない。
 なんとも――あわれな〈星〉だ。
「星の子よ」
 そう思った時にはすでに、男の舌は言葉を紡いでいた。
「我が暫しの間、お前を扶けよう」
 間髪を入れずに剣呑な紅い眼がこちらを射貫く。
 心なしか、否、明らかに場の空気が鋭利に尖る。子供の疑心と拒絶に感化された《風》がざわつく。研ぎ込んだ無数の刃で、四方八方を囲まれているような心地だ。
「〈星〉の子供とは脆弱な生物だ。それを一時的に扶けてやるという行為は、特段珍しくなかろう。何故に逆立つ」
「それが押しつけがましいものだったら、胸糞悪さに吐き気がするほど、いやだからだ」
 奇麗なかんばせに似合わない罵詈と同時に、男の皮膚にちりりと痛みが走る。
 信用し難いのは当然だが、大人を利用してやる心算すら無いらしい。嘘を並べてひとまず事を穏便に済ませようともしないあたり、年齢と比すれば成熟していようが、所詮は幼子なのだと評するべきか。
 頬を血液が伝うのを感じ取りながらも、男は冷静に淡々と続けた。
「齢の割に聡明と見受けるが、しかしそれは誤りぞ。星の子。親切心のみで扶けるほど、我は〈星〉に肩入れをしておらぬ」
「じゃあなんだ。おまえにも利があるっていうのか」
「如何にも。そう遭遇するものでもない『何物をも捨てた、意志だけを持つ星の子』を観る事になる故、益は在る」
 男なりに飾り立てず率直に言ってやると、やや間を置いて、周囲の《風》から殺気が消え失せた。
 小さな口から若干乱れた息が吐き出される。肩を上下させて呼吸を整えた子供は、まだ険の名残あるまなこで男を見つめる。
「具体的にどうやって助けるつもりだ」
「最も容易いのは、お前が生計を立てる途を見出すまで金銭的援助する事だが。我は記録を知識として扱う事も出来る。生きる術、斃す術、遂げる術。それらをお前に授けよう」
 男は決して全知とは呼べないが、少なくとも、両手で足りる程の年月しか生きていない子供に比べて、知見を膨大に有している。また子供も、与えられるままに享受するのではなく、自らの頭で考え、咀嚼できる素質を具えていると窺える。
 知識を与えれば、それを己の力へと変えられるだろう。やがては、事を成し遂げんとするにおいて資するだろう。そしてその過程の一部分を観るに叶えば、傍観者としての益を得られる。
 男にしては非常に珍しく、思惟より先に口が動いたが、改めて考えてみれば悪くない話だろう。子供にとっては勿論のこと、記録者たる男にとっても。
「悪くない」
 子供も同感だったらしいが、次の瞬間には一転して、白髪の間からのぞく柳眉が怪訝そうに寄せられる。
「でも、なんで……そんなことができる?」
 言い淀んだあとの発言には、ようやく正体を尋ねる響きが含まれていた。凡常の〈星〉であれば口角を吊りあげる場面だ。
 幼き星の子の関心が初めて、男そのものに向けられた瞬間だった。
「漸くか」
 然らば名乗ろうではないか。
「我は傍観者。記録するもの。観ていたものの残骸」
 男は滔々と続ける。
「観たものを決して忘れず、感情を絡めて想起する事はなく。只、書き留めてきたもの」
 それであること以外に意味を持たぬ傍観者。観測し、記した先に意義は無く、そこに在るだけの影。
「――望まれたならば、欠損無き記録を見返し、読み上げるに能う」
 自身の役目を自覚して以来、一度たりとも選んだことの無い台詞を最後に付け加えて、男はいらえた。
 束の間、両者のあいだを静寂が満たす。子供は男の言葉を噛みしめるように、傍観者、とつぶやく。そして男ただひとりを指し示す音は呑み下された。
「いつから観てるんだ?」
「〈星〉にとっては、絵空事の様な遠き日から」
「じゃあその、記録からすると――悪しき神ってのはなにものだ」
 咀嚼し、嚥下し、からになった口から出てきたのは、実に空虚な問い掛けだった。
 しかし傍観者として、記録に基づいて答えるのであれば。男は真摯に答酬した。
「悪も神も〈星〉の数だけ定義が揺らぐ。つまり悪神とは、虚ろの様なものだろう」
「その結論におまえ自身の異論は」
「無い」
「だったら、いい」
 男は少々面を食らった。
 それまでの子供の言動が簡潔だった分、要領を得ないその一言は異質だったのだ。
 何が「いい」のか。男は尋ねようとした。しかし白皙の小さな手を差し出されたことで、言葉は発せられる機会を失う。
「どれだけおまえの利になるのかわからないが。少しのあいだ、頼む」
 握手を交わさんとする、純然たる提案の受け入れ。踵で踏まれようものなら容易くひしゃげるであろう細工は、助けを乞う手のかたちをしていなかった。
 この程度では揺れ動かないのだ。
 自身をなんの変哲もない童だと評しておきながら、独力で立ち続けることに疑問も不安も覚えていないか、もしくは黙殺出来てしまう。まだ年端もいかぬ〈星〉を孤高たらしめる憤懣は、一体なにを所以とするのか。刃の如き意志は果たして最後まで折れずに在るのか。
 男は行く末まで見定める役割を負っていない。それらのこたえを知る機会には恵まれないだろう。しかし顛末の一端だけでも、あえて観る価値を期待できた。
「心得た」
 観測がため、いっとき観測するだけに留まらない存在と成ろう。
 傍観者はついに幼き星の手を取った。

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